カテゴリ

HOME > コラム > 大学はデジタルだけを語っていればいいのか?

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

大学はデジタルだけを語っていればいいのか?

 朝日新聞「変わる常識 問われるデジタル力」と題した朝日教育会議の記事(2021年1月10日)を読んだ。基調講演は早稲田大学総長田中愛治氏、そしてパネルディスカッションの相手が東京大学総長五神真氏とYouTube日本代表の仲条亮子氏である。
 
 二人の大学総長は、しきりにデジタルの重要性を指摘しておられる。それは大学という高等教育においてである。一方、民間会社の長でもある中条氏は、中等教育にいけるオンライン授業、いわば、YouTubeの存在意義を強調されてもいた。
 
 会議を終えての五神総長が呟いた。「ぼうっとしていたら、大学の機能の大部分はTouTubeに取って代わられる」
 
 このデジタル力といったものを題しての会議ではあるが、一つ抜け落ちている観点が、初等・中等教育におけるデジタル力という視点、また、アナログの重要性という言葉が一切でてこなかったことである。YouTudeの役割は、今では小学生から高校生にいたるまで教育から娯楽にいたるまで世を席捲している状況は想像に難くない。教育YouTuber葉一からミュージシャン瑛人に至るまでその影響力は言わずもがなである。
 
 話は飛ぶが、近年、小学校からの“株の取引き”や“金融のお勉強”の話、また、“起業のノウハウ”など実益主義で、大人になったら“どうお金儲けをしたら賢い人になれるのか”を伝授する風潮が依然としてあるらしい。キッザニア東京なんぞも栄えるのは、昭和のレトロな何々屋さんが身近にあった時代、言わば、コンビニが出現する以前の世界では、子供は、そこそこ通学路や放課後に働く大人の世界を垣間見てもいたが、平成以後ともなると、その働く大人の世界が子どもから遮断されてしまった感が否めない。子どもの世界もリアルからバーチャルへ移行する。そこに将来の職業の実体験として、キッザニアという娯楽施設が誕生した。ある意味、この施設の役割は評価できよう、しかし、このアミューズメント施設がフックとなり将来その道に進んだという平成の若者を追調査していただきたい。そんなにはいないと思われる。これは、小学校時代、公文式、ECC,学研などが運営する子ども英会話スクールなんぞに通っていた子どもが、中学で英語力伸びた、英語を前向きに学ぶようになった、そうした風評を耳にしたことがないのと同じである。私見と主観で申し上げるが、中学で英語が伸びる生徒は、小学校時代、国語と算数をしっかりとやってきた者である。
 
 株の知識や使える英語なんぞというものは、小学校、中学校、いや、高校生でも飲酒同様早すぎるのである。「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」という逆説的真理をわきまえておられぬ御仁にかぎり、実用第一主義のイデオロギーに染まりやすいのである。デジタル教育とて同じである。デジタルとは、ある意味ツールであり、武器にすぎない。それに対して、アナログは、理念であり、戦術にして戦略でもある。アナログのない教育は、まるで根が大地に張り巡らされていない大木のようなものである。これは、文法を学ばずして英語を学ぶに等しい。建築家の図面なしに、高層建築物を立てるに等しい。
 
 これは、司馬遼太郎の指摘である。帝国陸海軍が、戦艦やら空母、ゼロ戦にいたるまで近代兵器を進化させてもきた。日本が文明国の仲間入りをした証左の一ではある。しかし、昭和の軍人は、幕末を経験した上の世代、いわば、日清・日露を戦った軍人の合理主義・リアリズムを失ってしまった。帝国陸海軍は、進化はしたけれど進歩などはしていない、むしろ退化してしまった。私流にいえば、本当の意味のアナログ精神をかなぐり捨て、デジタル亡者になり果ててしまったからでもある。
 
 ここに、現代の賢者藤原正彦氏の言葉、「小学生に大切なのは、一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数、英会話、パソコン、そんなものどうでもいい!」が真実味を帯びて浮かび上がってもくる。アナログあってのデジタルという言説にこの二人の総長は言及されていない。恐らく、高校生は、自身が責任を負うべき対象ではないからであろう。おじいさんが孫を甘やかすだけで躾けや教育に責任がないことに等しい。また、当然、アナログ感覚を持って、デジタルへも対応できる学生がくる、いるという前提でスピーチされているようである。さらに、時代に迎合(?)、社会に適応する人材を輩出しなくてはならない大学経営といったものも頭にあるからであろう。
 
 ミスター文部省寺脇研氏が主導して挫折したゆとり教育と同義であるのが、高等教育のデジタル化というものに思えて仕方がないのである。高邁なる理想とおそまつな現実を算段しない構想とやらである。お上という文科省は、<有能な教師がいて、できる生徒がいる>という前提で方針を決定したように、<ハイテクの器具や有能なデジタル講師がいて、やる気まんまんの学生(高校時代のアナログから大学時代のデジタルへのシフトがスムーズにいく学生)>がいるとう前提で、この早稲田と東大は、「ポスト・コロナ時代の日本社会の未来」を論じているように思えて仕方がないである。この田中氏や五神氏は、大本営のエリート軍人にダブって見えてきてしまう。

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ