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HOME > コラム > 教育から経済にわたり、徳から金へシフト!?
コラム
教育から経済にわたり、徳から金へシフト!?
「学校で学んだことは、社会で役に立つのか?」といった幼稚な問いが、時代のあぶくのように、定期的に、澎湃と、メデャアや教育界でよく浮上する。これは、特に、高校英語に関しては、際立ってもいる。数学や理科は勿論だが、現代文や古文すら、その対象科目にはなっていない?英語だけが、やり玉にあがる世論の風潮、その軽薄さの顕れでもあろうか?
それでは、地理や政経はさておき、日本史と世界史といった歴史教科はどうであろうか?この問いを、今回は提示してみたい。答えは、簡単である。別に、飯を食っていく上では、役になどたちはしない。今でも、芸能人の蘊蓄クイズ番組の、知識という武器になるに過ぎない。歴史科目は、教養の初段階のいろはの‘い’の字でもある。人生上の、知的“保険・保障”のようなもの、それが教養の一側面でもあろう。
これは、いつか、深堀りしたいテーマでもあるのだが、令和の日本は、高校で学ぶ国語、社会、英語はもちろん、理科や数学さえ学ばなくても、極論ながら、プログラミンやC言語などITの様々なスキルさえ身に付けていれば、飯を食っていける時代である。ITと友となった、コミュニケーションがとれる人間は、食いっぱぐれがない。それゆえ、政府は、世代を超えて、社会のDX化を推進しているのである。一世代前、猫も杓子も、「これからは英語の時代だ。英語がなにより大切だ!」と叫んでいた時代が懐かしい。それの令和の焼き増し版に過ぎにない、このDX推進の背景には、世は、外国人とやりとりする仕事上の英語のスキルよりも、コンピュータやAIとコミュニケーションをとれる技術こそが、飯を食う種にもなっているというのが、正直なところ、現実的な答えともいえる。この激流こそ、社会人や会社におけるDXの推進の原動力、いわば、追い風ともなっている。この令和、小学生から中学生にかけての少年でも、世は、英語ができるより、アプリ開発、ゲームソフト作成、こうしたスキルの方が、食べていける時代であることを熟知してもいる。
松下幸之助や稲盛和夫の経営哲学を様々な書物から習得しても、せいぜい、飲食業から接客業といった、人対人にかかわる仕事、エッセンシャルワーカーを束ねる企業人にしか、その威力は発揮できない。これは、超現実的な視点で申しているにすぎない。また様々なスポーツにおける指導者におけるバイブル書程度で、なんとか、その存立基盤を保ってもいる。栗山監督は、日ハム時代に大谷翔平に贈ったとされる『論語と算盤』でもある。それよりも、プログラミングやソフト開発、アプリ制作のできる能力こそが、食っていく種ともなっているのが現実だ。それは、産業資本主義から金融資本主義への移行が象徴してもいよう。アスリートの世界では、人間学を学ぶ、磨くことコンセプトとした『致知』という雑誌が依然として根強い人気であるのは、その証拠でもあろうか。
平成前半まで、その企業人やその技術への洞察力による信用貸し、企業育成といったものを主眼として人間学・人間力を根底とするものであった。それに対して、ここ20年足らずのうちに、IT(DX)革命による金融技術の進化による金融資本主義というモンスターが生まれてしまった。どれだけ瞬時に、短時間に、ビッグマネーを手にするのか、そういった経済イデオロギーにパワーシフトしてしまった実態が、『論語と算盤』というお題目を、その効用を薄めてしまった感が否めない。そのしっぺ返しが、リーマンショックに象徴されてもいよう。フジテレビやセブンイレブンでも浮上してきた、外資のモノ言う株主もアベノミクスの負の遺産ともなっているのであろうか?
この2020年代は、英数国理社といった中等教育で学ぶ科目の意義、そして社会や会社における倫理観といった本義、それを、GAFA帝国が牛耳る世界で、放逐されようとしている。その時代の流れを、ものの見事に表徴しているのが、センター試験から変貌ととげた、怪物的国民行事ともいえる大学入学共通テストである。
この共通テストを評価している、推進している輩は、新資本主義に基づくグローバル化を容認、推進する政治家や経済人と共通する、ダブルからである。この共通テストの、誰も指摘しない最大の特徴は、高校という場で本来学ぶべき内容から、大きく飛躍している、解離している、いや、教科書や集団授業では、賄いきれない、生徒独自で習得しなければならない、それも、知能テストに近い、努力云々では解決しない、ある点数以上は無理ともいえる、ガラスの天井が用意されている問題だからである。人間のIT度、AI度、それと親和性が高い高校生に有利に作成されてもいる。アナログ(共通一次試験)からアナログ+デジタル(センター試験)、そしてデジタル(大学入学共通テスト)の試験への移行でもある。人間のAI度を量る問題の出現である。
この共通テストを是とするか、非とするか、そこに、学校教育、科目教育、試験制度の進化とみるか、それらの退化、無政状態、混沌とみるか、そのリトマス試験ともなる。前者は、教育とは、役に立つものをおしえるべきである論が、後者には、教育とは、本来役に立たないものであるという、一種、教養論がベースにある。お前は、どちら派かと問われれれば、間違いなく後者に賭ける。答えは簡単だ。次の小泉信三の言葉を信じてもいるからである。
「すぐに役にたつものは、すぐに役に立たなくなる」
それでは、地理や政経はさておき、日本史と世界史といった歴史教科はどうであろうか?この問いを、今回は提示してみたい。答えは、簡単である。別に、飯を食っていく上では、役になどたちはしない。今でも、芸能人の蘊蓄クイズ番組の、知識という武器になるに過ぎない。歴史科目は、教養の初段階のいろはの‘い’の字でもある。人生上の、知的“保険・保障”のようなもの、それが教養の一側面でもあろう。
これは、いつか、深堀りしたいテーマでもあるのだが、令和の日本は、高校で学ぶ国語、社会、英語はもちろん、理科や数学さえ学ばなくても、極論ながら、プログラミンやC言語などITの様々なスキルさえ身に付けていれば、飯を食っていける時代である。ITと友となった、コミュニケーションがとれる人間は、食いっぱぐれがない。それゆえ、政府は、世代を超えて、社会のDX化を推進しているのである。一世代前、猫も杓子も、「これからは英語の時代だ。英語がなにより大切だ!」と叫んでいた時代が懐かしい。それの令和の焼き増し版に過ぎにない、このDX推進の背景には、世は、外国人とやりとりする仕事上の英語のスキルよりも、コンピュータやAIとコミュニケーションをとれる技術こそが、飯を食う種にもなっているというのが、正直なところ、現実的な答えともいえる。この激流こそ、社会人や会社におけるDXの推進の原動力、いわば、追い風ともなっている。この令和、小学生から中学生にかけての少年でも、世は、英語ができるより、アプリ開発、ゲームソフト作成、こうしたスキルの方が、食べていける時代であることを熟知してもいる。
松下幸之助や稲盛和夫の経営哲学を様々な書物から習得しても、せいぜい、飲食業から接客業といった、人対人にかかわる仕事、エッセンシャルワーカーを束ねる企業人にしか、その威力は発揮できない。これは、超現実的な視点で申しているにすぎない。また様々なスポーツにおける指導者におけるバイブル書程度で、なんとか、その存立基盤を保ってもいる。栗山監督は、日ハム時代に大谷翔平に贈ったとされる『論語と算盤』でもある。それよりも、プログラミングやソフト開発、アプリ制作のできる能力こそが、食っていく種ともなっているのが現実だ。それは、産業資本主義から金融資本主義への移行が象徴してもいよう。アスリートの世界では、人間学を学ぶ、磨くことコンセプトとした『致知』という雑誌が依然として根強い人気であるのは、その証拠でもあろうか。
平成前半まで、その企業人やその技術への洞察力による信用貸し、企業育成といったものを主眼として人間学・人間力を根底とするものであった。それに対して、ここ20年足らずのうちに、IT(DX)革命による金融技術の進化による金融資本主義というモンスターが生まれてしまった。どれだけ瞬時に、短時間に、ビッグマネーを手にするのか、そういった経済イデオロギーにパワーシフトしてしまった実態が、『論語と算盤』というお題目を、その効用を薄めてしまった感が否めない。そのしっぺ返しが、リーマンショックに象徴されてもいよう。フジテレビやセブンイレブンでも浮上してきた、外資のモノ言う株主もアベノミクスの負の遺産ともなっているのであろうか?
この2020年代は、英数国理社といった中等教育で学ぶ科目の意義、そして社会や会社における倫理観といった本義、それを、GAFA帝国が牛耳る世界で、放逐されようとしている。その時代の流れを、ものの見事に表徴しているのが、センター試験から変貌ととげた、怪物的国民行事ともいえる大学入学共通テストである。
この共通テストを評価している、推進している輩は、新資本主義に基づくグローバル化を容認、推進する政治家や経済人と共通する、ダブルからである。この共通テストの、誰も指摘しない最大の特徴は、高校という場で本来学ぶべき内容から、大きく飛躍している、解離している、いや、教科書や集団授業では、賄いきれない、生徒独自で習得しなければならない、それも、知能テストに近い、努力云々では解決しない、ある点数以上は無理ともいえる、ガラスの天井が用意されている問題だからである。人間のIT度、AI度、それと親和性が高い高校生に有利に作成されてもいる。アナログ(共通一次試験)からアナログ+デジタル(センター試験)、そしてデジタル(大学入学共通テスト)の試験への移行でもある。人間のAI度を量る問題の出現である。
この共通テストを是とするか、非とするか、そこに、学校教育、科目教育、試験制度の進化とみるか、それらの退化、無政状態、混沌とみるか、そのリトマス試験ともなる。前者は、教育とは、役に立つものをおしえるべきである論が、後者には、教育とは、本来役に立たないものであるという、一種、教養論がベースにある。お前は、どちら派かと問われれれば、間違いなく後者に賭ける。答えは簡単だ。次の小泉信三の言葉を信じてもいるからである。
「すぐに役にたつものは、すぐに役に立たなくなる」
2025年6月30日 17:54