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数学随想①

理系・文系と別れるのは、科目間離婚である!

 

 アメリカ社会では、日本人における家族構成、即ち、両親と兄弟姉妹が血縁で繋がっている‘日本人がイメージする家族’というものが全世帯の4分の1しかないという実態をまず挙げておきましょう。具体例は以下の通りです。

 

 パターンⅠ:父子家庭と母子家庭が再婚して、血の繋がっていない兄弟姉妹がいる家庭

 パターン2:父子家庭、もしくは、母子家庭の家庭

 パターン3:日本的血縁関係があり、子供たちも我が子でありながら養子を迎えいれている家庭

 パターン4:子供がいない夫婦で、養子として我が子を迎え入れている家庭

 

 などなどが、アメリカ社会の家庭の4分の3を占めているのです。こうした家族構成な

ど日本人であれば、ほとんどイメージすることなどできないことでしょう。そのように思

うのは、日本がNation State(民族国家)であり、島国、そして非移民国家

であったことが大きな理由とも考えられます。

 

数学は父親・英語は母親~中学・高校において~

 

 小学校から中学校にかけて、生徒自身における数学と英語の立ち位置という存在について考えてみたいと思います。数学は父親であり、英語は母親とまず譬えてみます。国語という科目は、一応、生まれたとき、そして幼児期そして、習ってきた親子の関係上、中等教育では敢えて除外したいと思います。国語は、風土、育った町、環境とも言えるからです。

 特に、小学校時代は、一番伸びる科目は算数であり、英語は習いません。数学とは一概に括れない都合上、中学から高校にかけての数学、それを父親、そして、中学から始まる英語を母親と擬えてみたいのです。勉強という意識の芽生え、それを父と母を強烈に認識する、思春期ともダブル時機(中高の段階)に設定してみたいと思います。

 父方の祖父母をそれぞれ、物理と化学とし、母方の祖父母をそれぞれ、歴史(世界史<外国人>・日本史<日本人>)と地理とします。

 

 中学時代は、数英(国)理社の幸福な共存関係が存在しています。公立高校進学のために内申点をも考慮して、数英を中心に、それ以外の理社とも真面目に取り組む段階です。しかし、高校時代ともなると、生徒自身の内面で、理系と文系の科目の離婚状態になることが、日本の学校カリキュラム上当然のように起こってきます。特に、女子に見られる父親離れ・父親嫌いというメンタル現象こそ、数学を捨て科目とする、私立文系志向です。これなんぞは、家庭内離婚のようなもので、苦手でもしぶしぶ数学という父親と同居せざるをえない、国公立志望女子で、横浜国大や地方の国立志望で、センター試験で必要なため、数学を仕方なくやっている女子でもあります。しかし、母親までもが娘に同調し、父親を毛嫌いする段階ともなると、まさしく、離婚とあいなり、母子家庭という英(国)社の私立文系志望の受験生の誕生ともなるのです。

 中学段階の数学と高校段階の数学では、難しさのレベル、習う内容の量が前者に比べ後者では莫大に上がり、増えてもきます。それゆえ、中学時代にせめて数学ⅠAを消化しておくことが、高校時代の数学負担を軽減することになるという説まであります。それはある意味、私立の中高一貫校と公立の中学校から県立の高校へと進学した生徒の数学選択の比率にも表れてもいますが、一概にそうとも断定しかねる点もあります。同じ神奈川県の秀才のメッカ、私立栄光学園と聖光学院の高校1年と、県立湘南高校と翠嵐高校の高校1年とを比較して、一番の開きがある科目、それは、数学なのです。前者の超進学校では、高校1年では数学ⅡBに入っています。しかし、後者の超進学校では、高校1年で初めて数ⅠAを学び始めるのです。この点が決定的に県立ではハンディになってしまっている現実なのです。16才の秀才は、英語は学校の授業や受験に関係なく、先取りでき、また、それを実行している生徒も多いでしょうが、数学ともなると、SEGや鉄緑会、そしてエデュカなど数学エリート塾にでも通っていなければ、数学の先取りをする、また、先取りを進んでやる生徒などごく少数派とさえ言えるのです。これが英語と数学の決定的な違いです。

 

離婚して母親側につく子供≒私立文系の生徒

 

 この日本では、理系・文系とあからさまに高校生ともなると、コースが分かれます。しかし、外国、特に欧米では、中等教育にしろ、高校教育にしろ、日本ほど如実に、露骨に、数学系≒理系{※数理得意}と非数学系≒文系{※英国得意}と高校生の段階で、科目離婚などありえないといいます。これは、英語がある意味で、文系生徒のよりどころとなっている嫌いがなくもない。英語さえできれば、高等教育へのパスポートが手に入る現実があるからでもありましょう。慶應のSFCなど特にそうです。恐らく、外国では、外国語は、科目(学問)とは認識されてはおらず、科学(学問)への手段(ツール)程度の認識でもあるからなのでしょう。日本は、英語ができれば、頭がいいメルクマール(目印)のように思われてもいます。厭味ったらしく言わせてもらえば、早慶上智という大学のブランドで、英語という科目の出来具合{※英語を学生の評価基準から敢えて除外した評価}を差し引いたら、科学オンリー(学問研究)の評価では、上智は、MARCHレベルにやっと入る次元の大学ともなってしまうでしょう。<英語のできる学生≒頭の良い学生>の象徴ともいえなくもない大学です。ですから、上智、ICUそして東京外大の学生で本当に、学問を究めたいとする学生は、4年間の学部時代に外国語(※特に英語)をブラシュアップし、そして大学院では東大一橋や早慶に進学し、経済学や政治学を学ぶ人が多いとされる所以でもあります。嫌味ったらしく申し上げれば、上智大学は、法学部や経済学よりも外国語学部系の方が、優秀という至って当たり前の実態の証明にもなっています。

 

血縁関係を重視しないアメリカ家族と理系を重視しない日本の高校生

 

 アメリカ社会では、バツイチの母とバツイチ父が再婚して、血の繋がらない兄や姉と同居する家庭、日本の家庭と同様に両親と子供2人が幸せに暮らす家庭に黒人の養子を3人も抱え込んでいる家庭、母子家庭、父子家庭といったものが当たり前ですが、アメリカのハイスクールでは学問(理系文系)の離婚は考えられません。日本社会は、血縁関係で結ばれた家族をなりわいにしがらも、その子供は、内面で、‘学問の離婚状態’の人が半数以上を占めます。海外基準から言えば、異常な文系・理系といったカリキュラムが存在する社会です。

 日本人が、アメリカ社会の家庭構成を、珍しい、奇異に、時に‘ありえへん的感情’で考えるように、実は、アメリカ人によって、日本の高校生の学問(科学)の理系・文系の科目間離婚など、異常で、不自然で、‘それって学問って言えるの?的感情’で観られているのです。

 では、この日本で、数学と決別する学問の‘文理’の離婚時代に突入する高校生が非常に多い理由をこれから考えてみたいと思います。(つづく)


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