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コラム

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リベラルアーツの雛型は高校時代にできあがる!?

「世界で輝く大学」目指す
国際化で欧米追い上げ
国内外で教員公募  文理融合で教育改善
          田中愛治  早稲田大学総長寄稿  
            2020年1月6日(月) 日本経済新聞
 
東工大が「未来の人類研究センター」を新設
科学技術と人 共存探る
◆守るべき価値とは 
◆AI・宗教…多岐に
 理系と文系 橋渡し役に
  センター長に就くリベラルアーツ研究教育院(ILA)の伊藤亜紗准教授のインタヴュー
             2020年1月8日(水)日本経済新聞
 
国立大学 「文理融合」学部創設進む
AIや地域活性化*国際的な人材育成
 開設が進む文理融合型の学部
 情報系        滋賀大学   データサイエンス学部 2017
            広島大学   情報科学部      2018
 地域貢献型      宇都宮大学  地域デザイン科学部  2016
            愛媛大学   社会共創学部     2016
 都市の未来を構想   横浜国立大  都市科学部      2017
 その他        新潟大学   創生学部       2017
            九州大学   共創学部       2018
          2020年1月17日(金)  読売新聞
 
以上は、1月の新聞{日本経済新聞・読売新聞}の教育関係の記事の見出しです。
 
 いまや、高等教育、日本のアカデミズの世界では、<文理融合>がちょっとしたブームらしい。なぜブームかといったシニカルな表現をするかと言えば、一過性の改革スローガンに思えてならないからです。キラキラネームの学部、いわば、~グローバル学部やら国際~学部、また、環境~学部やら総合~学部といったものが有名であります。リベラルなんちゃら学部まである始末です。名前負け、内実が伴わない実態は、大学関係者のみならず賢明な親御さんですら熟知しているはずです。その看板が錆びれかけ、実態が馬脚を現し始めてきた矢先、内実の変革をアピールしてきた嫌いがなくもない、それが、文理融合のスローガンの正体だと思われます。
 
 まず早稲田大学です。早稲田の理工といえば、私学でも頂点に位置していますが、世間のイメージとしては、やはり文系です。文系のすべての学部は、これまで数学抜き、いや、避けても合格できるルートがあり、それで入学できました。これに対して、新しく就任された田中愛治総長が、早稲田の政経にも数学ⅠAを必須とする方針を打ち出しました。その総長の決断が、早稲田のこれからの方向性を象徴してもいます。果たしてうまくゆくか、私は懐疑的です。
 それに対して、東工大は、古いところでは、芳賀綏や江藤淳など、また、ロジャー・パルバースなど理系バカにならないようにと、あっさりした文系教養講座の講師も据えて、理系学生の精神のバランスを保とうとするのが本学の傾向でもありました。近年では、ジャーナリスト池上彰を教授に招いたり、タレントのパックンこと、パトリック・ハーランが非常勤講師に、思想家東浩紀も教鞭をとっていましたし、その朋友西田亮介なども東工大でいま教鞭をとられたりしています。今注目の思想家國分功一郎なども教授として在籍されています。これは、極端ですが、オウム真理教に入信した、ばかエリート理系学生を予防する意味でも、また、将来的に、サイエンスとリベラルアーツの結晶体的天才、スティーブ・ジョブスのような<柔らかい知>を育むという意味もあるでしょう。こうした傾向が近年顕著になってきています。それが、リベラルアーツ研究教育院(ILA)の立ち上げに結びついたのでしょう。このILAに新たな教員として、中島岳志教授(政治学)、若松英輔教授(人間文化論)、磯崎憲一郎教授(文学)が加わるとのこと。これも、デジタル化やSNS社会が進展してゆくなか、茨の道を行くが如きに思われなくもない。
 
 
 こうした早稲田や東工大の大学改革が、地方の国立大学にまで波及している様は、ある意味、大学の生き残り策とも言えましょう。いやそれが、大学当時者たちの本音でありましょう。
 
 そもそも、アメリカの大学は、4年間、リベラルアーツを学ぶと言います。そして、その後、法律面ならロース・クールへ、経営ならビジネス・スクールへと、大学院に進学して、その専門性に磨きをかけるのです。一方、日本では、法学部やら、経営学部やら、文学部やら、いかにもその専門性を学んできましたよとアピールしているかのような学士の称号を得ます。しかし、その学部で学んだことは、高校生が独学で学べる程度に毛が生えた程度のものであります。東大の文Ⅱ(経済学部)を出ても、アナウンサーや公務員に進む女子もいれば、早稲田の法学部をでて、ユニクロに就職する男子もいるのです。
 こうした学生は、その学部の表面的な知識をゼミ形式に、お勉強して、レポート提出し、単位をもらい、キャンパス以外では、全く本も自主的には読まず、アルバイトに明け暮れて約3年間を過ごし、最後の1年は、就職活動で、大学受験のように努力8割でなんとかなった関門とは異質の、努力ではどうしようもない世界(企業の世界・社会人の世界)にぶち当たるのです{※理系は、ほんとどが院に進むため事情が大いに違ってきます}。その最後の1年で、「もうちょっと勉強しておけばよかた」「もっと色々な本を読んでおけばよかった」「もっと専門(自身の専攻する学問)以外にも講座を受講しておけばよかった」などなど様々な学びの後悔の念に囚われるものです。運よく、希望の会社・職業に就けたとしても、「あの大学時代、英語をもっと勉強しておけばよかった」「もう少し教養を高めておけばよかった」「経営学部だったんだから、もっとビジネス関係の本を読んでおけばよかった」「あの資格取っておけばよかった」などなど様々な悔恨の念にも囚われる人がほとんどではないでしょうか。
 
 実は、大学の学部で学ぶ教科・講座などを、だしに,ヒントに、どれだけ、自身で前向きに知の世界に足を踏み入れて、独自に考え・悩み、様々な本を読んだ学生こそが、その後、社会人としての海図(知のチャート){※社会をサバイバルしてゆけるツールのようなもの}を手に入れられるのです。
 
 以上の、こうした大学改革に、成功した大学が、秋田国際教養大学であります。公立、しかも秋田の超田舎、それも全寮制という必要条件に、中嶋嶺雄というカリスマ学長(理事長)が率先して陣頭指揮を執り、自身の理念にぶれなかったという十分条件があったればこそ、おまけに、文系大学という狭い条件も追い風となり成功したものと思われます。
 地方の公立・国立大学も、この国際教養大学を真似して、文系学部の改革を行ってもなかなか成功の日の目を見ることができないのは、SFCのAO入試を二番煎じ、三番煎じに真似しても成功しなかったのと同義であります。ユニクロのSPA(製造小売業方式)をスーパーのイオンやデパートの高島屋が、それをマネしても、最初にやった存在には、敵わないというビジネス上の真理・法則と似たものがあるのです。
 ここにおいても、西部邁の<「適応」を専らとするは進歩なき進化である>の俚諺が当てはまります。
 アメリカの4年生大学のリベラルアーツ方式を、私学の雄早稲田、国立理系の雄東工大、これらが行っているからといって、MARCH以下レベルの私大、存廃の危機に立たされている国公立の大学が、同じようなことを行っても、成功確率50%以下といったらいいでしょうか。なぜならば、そうした大学は、「大学経営先ありき、それにつじつま合わせの大学改革という美名なリベラルアーツを標榜している」ように見えてならないからです。安倍首相の加計学園設置の答弁の心根、即ち、<お友達の加計孝太郎に獣医学部を作ってあげよう、その理由は、あとからなんとでもこしらえられる>のと同じ論法です。
ビジネスの世界でも、「どうやって売り上げを上げるか、伸ばすか、どうやったら利益がでるか」その視点に汲々としているとビジネスは行き詰まります。「どうやったらお客様が喜ぶか、欲しいものは何か、また、利益は二の次に考える、時に損しても消費者の信頼を得ること最優先」これこそが、ビジネスの定石です。何か、「大学改革!」と標榜している学校は、泡沫サービス業の高等教育バージョンに思えてならなのです。
 
 「真のリベラルアーツ教育を大学で実践します」と標榜するのなら、高校の時点で、文系なら英語・国語の他に、歴史・地理・政経などの最低限度は習得する。理系なら、英語・数学の他に、物理・化学・生物などの最低限度の知識を身に付けてキャンパスに足を踏み入れるべきなのです。大学も、それをチェックする入試制度にすべきなのです。2科目入試など論外です。センター試験だけで合格をだす大学もブラックです。大学生になって、高校でも学んできていない、真っ白な教科(科目)を、新たに学ぶ殊勝な心構えなど芽生えないことは、ちょうど、幼児期・幼稚園期に好き勝手に育てられたら、小学校に入っても、集団生活の中での、マナーやエチケットが身に付かない、もう手遅れである教育的事例に思いを馳せれば、同じことなのです。6歳までの躾というものがどれほど大切であるか。それは、中等教育(中学・高校)の段階で、知的鍛錬・修練といった“知の躾”(嫌いなもの、苦手なものでも一応学んでおかねばといった高邁なる精神)を植え付けておかなければ、その後の高等教育(大学・社会)の<知の伸びしろ>が皆無となってしまうのです。
 やはり、いくら、「大学でリベラルアーツだ!」「一般教養だ!」「文理融合だ!」と標榜しても、その学ぼうとするひた向きさは、高校時代にすでにできあがっているものなのです。それは、真の進学校の俊才・英才が、ある意味、中学受験の勉強で“前頭前野”が耕されていた、至って驚くにあたらない事実と全く同じことなのです。
 
 




 

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