コラム

感性の老化?or文化の退化?

 平成も後半になってから、同時代作家が芥川賞と取っても、本屋大賞をとっても、また、爆発的なミリオンセラーになっても、もちろん、世界的“文豪”村上春樹さへ、もう、小説というジャンルに読む気持ちを駆られなくなった。文芸評論家福田和也氏もどこかで似たような発言をされていた記憶がある。
 
 映画も、年に10本以下、特に邦画がメインだが、それくらいしか映画館で観なくなった。昔の映画であれば、数億円ものセットを作り、それを爆破したり、炎上させたりしたリアリズムが貫徹されてもいた今や、デジタル加工で、炎上場面でもコンピュータ映像で手を加えられているのが見え見えなのである。現代の時代劇映画と黒澤明映画との違いである。ハリーポッターの映画なんぞは、一度も観たことがない。ああいう、デジタル加工の映像は、むしろアニメーションで光るものという思い込みがどうも私にはある。だから、「君の名は。」で一躍有名になった新海誠の映像美なら、その長所は如何なく発揮される。ジブリ映画も、宮崎駿、高畑勲のアニメーションが、ちょうどアニメ期の“黒澤明”“小津安二郎”であったように思われる今日この頃でもある。
 
 野球もほとんど興味が薄くなった。スポーツニュースでそのゲームのあらましを観て、それで満足といった感じである。飲食店やサウナでの実況中継では観るが、自宅で率先して、地上波で観たい気持ちは湧き上がってはこない。昔、大橋巨泉が、王・長嶋以降は野球を観なくなったと語っていたが、やはり、そのジャンルの黎明期から全盛期というものが、小説なら、明治・大正・昭和であり、漱石から三島くらいまで、大方“日本文学列島”が形作られたとするのが私の文学観でもある。
 
 映画も、そうである。黒澤・小津・溝口から、日活・東宝・東映の昭和30年代までで、“日本映画の古典(名作)”が出来上がってしまった感が否めない。彼らで、蓮見重彦流に申し上げれば、“映画の文法”が出来上がってしまったということでもある。
 
 野球も、王・長嶋というテレビ中継全盛時代のスポーツヒーローが引退し、V9時代以降、球界の盟主として浮上してきた堤義明総帥が率いる西武ライオンズが、“平家をぶっ潰す源氏”のように、また、“豊臣政権の覇権を奪おうとする家康”の如きに、昭和末から平成前半にかけてまさしく、“文禄から慶長の時代”で、西武グループと読売グループの社運をかけた“戦い”でもありわくわくした思い出がある。また、平成の名勝負、長嶋監督(勘ピュータ野球)と野村監督(ID野球)のカリスマ野球人同士の“戦い”にもフアンは色々な因縁のストーリーを紡ぎだし、興味津々、その人間臭いドラマも味わっていた。
 それだけではない。平成に入り、スポーツのジャンルも野球以外に、サッカーという世界的ライバルが日本で台頭してきた。今や、Bリーグなどもでき、バスケの裾野も大いに広がろうとしている。野球というスポーツが今や、サッカーという徳川家康の台頭で、豊臣政権のように、一大大名になれ下がろうという機運すら感じる。地上波の野球中継が殆どなくなってしまったことが何よりの証拠である。
 
 プロレスも昭和の時代、野球、相撲に次ぐ国民的娯楽(スポーツ)であった。しかし、平成も半ばともなると、K1やらプライドやら真剣勝負の格闘技がスターダムにのし上がってくる。その真剣勝負を一目観たファンの目は肥えてしまった。スーパーの安い牛肉しか味わっていなかった子供が、デパ地下の松坂牛の旨さに目覚めてしまったようなものである。プロレス冬時代突入である。私も、馬場・猪木から長州・藤波・鶴田の地上波ゴールデンタイムで放映されていた昭和のプロレスを知っている世代としては、ガチンコ勝負のK1やプライドの試合を観てから“平成プロレス”は卒業してしまった感が否めない。
 
 テレビも今やバラエティーなどまったく観なくなってしまった。まず、「天才たけしの元気がでるテレビ」(日本テレビ)などのコンテンツのような番組が絶滅危惧種になりつつある。いや、絶滅してしまった。今では放送コードの厳しさが内容をつまらなくさせてもいる。ドラマにしても、そうである。テレビの黎明期後十数年、映画が斜陽産業となるのと反比例して、テレビが、お茶の間の娯楽王を占める時代である。脚本家の山田太一や向田邦子のテレビドラマ、平成初期にかけてのトレンディードラマバブルの時代までがせいぜいである。正直言わせてもらうと、テレビ業界は今やテレビ文化を生み、育てる風土ではなく、お笑いタレント、ジャニーズやAKBのアイドル、モデル、二流俳優を食わせていくだけのプラットフォームに成り下がってしまった感が否めない!
 テレビのコンテンツの質の低下、そして面白さのあくのなさ、これが、少年少女をユーチューブへ、ネット配信へと駆り立ててもいる。今や、中高生はテレビをほとんど観ない傾向にある。内容のつまらなさに加えて、デジタル社会の進歩がそうさせてもいるのであろう。
 
 最後に音楽である。平成の半ばあたりまで、CDが何百万枚も売れた時代があった。今や、若者は、CDを購入しない。サブスクリとかやらで、聞きたい放題、好きな歌手、それもその歌手の好きな曲だけつまみ食い的ダウンロードするだけときている。歌手は印税生活で超儲かるなどといった時代は神話となりつつある。歌手・アーティストは、今や、ライブが稼ぎ源である。しかし、コロナ禍で、それも今や舞台役者同様、収入源が閉ざされて苦境の状況下にある。大変な時代である。
 これは、あくまで個人的感想と断ってもおくが、今流行りの米津玄師、椎名林檎やヒゲダンやらキングヌーやら、一向に私の感性・思考に“いい!”というシグナルを送ってはくれないのである。感性に響いてはこないのである。また、どう考えても、好きになれないのである。
 米津や椎名は、“ピカソ”や“マチス”のように思われる。心底心惹かれる画家とは正直言い難い巨匠である。古典主義のアングル、ロマン主義のドラクロアから初期印象派モネ、ルノワール、そして、後期印象派セザンヌやゴッホあたりに魅了された者なら、キュービムやフォービズム、シュールレアリスムといった画家たちは、頭で理解はできても、本心から“いいな~!”と思えない心情と似たものがある。
 もちろん、私の個人的見解と断って申し上げてもいるのだが、10年周期で、国民的アーティスト(子供から老人まで“いいな~!”と思える楽曲を作っているグループ)が出現しているのも事実である。だいたいと断って申し上げるが、1978年のサザン、1988年のドリカム、1998年のゆず、2008年のいきものががりなどである。
 
 しかし、ここではっきりと断言しよう。アングルやドラクロアが吉田拓郎であり、井上陽水である。初期印象派が、ユーミン、中島みゆき、竹内まりや、山下達郎、さだまさしでもある、そして後期印象派が、ミスチル、スピッツ、B‘zあたりかもしれない。
 
 批判覚悟で申し上げるとすると、令和の邦楽は、ピカソやブラックなんてもんじゃない、カンデンスキーやミロのような抽象絵画に思えて仕方がないのである。だから、私は音楽番組など一切今では観ない。音楽番組が激減したのは、楽曲の質の低下?いや変質が大いにあるというのが私見でもある。断っておくが、抽象絵画でも、P・クレーは大のファンである。
 今や世界的巨匠となった現代アートの村上隆や奈良美智、彼らなどは“まあ~!これが現代アートというものなのね?”と自身を無理やり納得させて、自身の感性を騙し騙し、ごまかして、美術館で鑑賞している自分に気づくのである。村上隆なども語っていたが、「今のアニメは、100年後、現在の江戸の浮世絵のように評価が上がっている!そもそも江戸の北斎や広重なども当時は、娯楽の絵、大衆の慰めもの程度であった」、確かにそうであろう、しかし、同時代の感性は、予言者でもなく、画商{※現代アート(村上や奈良)の価格をつり上げている存在はまさしく画商である!}でもない。更に断ってもおくが、草間彌生は、<水玉と色彩>で、“いい!”というか、ある意味圧倒される印象をおぼえるのが正直な感想でもある。
 
 こうした現代小説、平成後半の映画、今のプロ野球、21世紀のプロレス、平成末期の音楽など、一切興味の対象から外れ、進んで関与しよう、読もう、観よう、聴こうとする気持ちが湧かない自分に気づくのである。それを、私の感性が鈍い、衰えた、老いた、枯れた、いや、感性が時代に適応できなくなってきているなどなどの誹りを受けることを覚悟で申し上げているまでである。「果たして、知性は騙せても、感性は騙せるものだろうか?」というのが私の“教養として経験則”なのである。しかしである。気になる小説(歴史小説)、興味が引かれる映画(是枝や川瀬の映画)、日本シリーズ(ソフトバンク対巨人)、世界タイトルマッチのプロボクシング(井上尚弥)、一部の音楽家(ミュージシャン)などは、興味の対象であることは断ってもおく。
 
 手塚漫画、宮崎アニメ、これまではいいと思うが、新海誠の映像美は、デジタルの映像美であり、そのコンテンツは、二の次であると思われる方もおられよう。それが、<感性と知性>の両面からの鑑識眼から言える正直なる感想でもある。
 
 三島没後50年を迎える令和2年でもある。三島の文学がなぜ廃れず輝きを放ち読み継がれるのか?それは、華麗なる文体と高度の語彙の豊かさにある。それらから紡ぎだされる言語芸術のハーモニーから感性のみずみずしさが奏でられてもいるからである。それが何よりの魅力である。近代文学の極北である。アニメーションを三島に準えるなら宮崎駿・高畑勲がアニメの究極でもあろう。内容(コンテンツ)はもちろん、その<アナログでしか出せない映像美>というものである。この点、今ブームの『鬼滅の刃』などは、内容が超面白いだけのライトノベルに思えて仕方がないのである。『半沢直樹』が、出演者の極端な顔の表情と会社内の勧善懲悪を扱ったグロテスクなコンテンツであり数十年後、“鬼滅ブーム”と“半沢ブーム”があったな!と懐古されるだけの作品となることだけは予言しておこう。
 
 では、何故、こうした話(命題)をしたかたというと、これからはデジタル庁の発足から、脱ハンコ社会、ファックス無用社会、電子マネー決済、リモートワーク社会、ワーケーションといったライフスタイルの変化、こうした時代のライフスタイルに違和感、拒否感、不適応などなどを感じられる方もおられよう。まるで、江戸末期の武士や庶民が、明治維新後の文明開化の流れのなかで生理的、心理的に拒否反応を示し、同時代にどう置き去りにされていったか、そして仕方なくいかに向きあい、対処したか、それと同じ悩み・苦悩・課題が似ているように思われたので、<時代・流行の進歩・進化>と<個人の知性・感性>がどう向き合ってゆくべきなのかといった観点から、個人的な日ごろの“徒然なる実感”を語ってみたのである。
 
 そうした、私自身の経験が、文化、サブカル、芸術、音楽など、その時代の質の低下に起因するものなのか、あるいは、人間個人の生物としての、感性の劣化・退化・衰えに原因があるものなのか、その回答というものを模索し、語ってみたまでである。
 
 最後に断ってもおくが、感性が拒否しながらも、知性が「どうしてわからないんだ?」と問い質してくる衝動だけは、依然として私の精神にはある。時代への興味・好奇心とやらは今の中高生以上に、自慢ではないが、熱いものは失ってはいない自負がある。教室内で、直接接している中高生に感じられる印象だが、令和の若者の方が、ものごとを極端に好き・嫌いで判断し、自身の感性を硬直させているようにすら思えるのである。スマホやパソコンで、何でも観られる、聴ける、知ることのできる便利なツールのある時代が、感性・知性の渇望感を削いでいるように思えて仕方がないのである。月並みな表現だか、<知の草食化>が起こっていると観た方がいい。
 
 「論語読みの論語知らず」という謂いがあるが、私の世代(新人類世代)は、『構造と力』で一躍“知のアイドル”となった浅田彰が述べたように、「論語読まずの論語知り」の世代でもある。軽薄短小で、サブカルから文化を知ろうとした世代でもある。歴史や哲学をマンガで学ぶ最初の世代、はしりということである。しかし、平成から令和にかけての若者は、「論語読まずの論語知らず」の世代になっていることを痛感するのである。

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