コラム

個人の経験を社会や組織に押しつける愚

 「命さえあれば、経済の立て直し、サッカー、何だってできる。亡くなったら何もできなくなる。これを忘れちゃいけない。」  日本サッカー協会 田嶋幸三会長{デイリースポーツ 2020年5月12日(水)}
 
 この発言を紙面で読んで、この人は、組織のリーダーとして失格だなと個人的ながら感想をもった。この人の意見は、自身が新型コロナウイルスにかかり、死の淵をさまよい、生還した教訓を、押し付け教訓的一般論として、アピールしたいらしいが、この実感は、自身の立場上、公の場には出してはいけないもの、心にじっと内包しておくものだ。ましてや、日本サッカー協会のトップたる人物であればなおさらである。この私の意見に違和感を抱かれる方を対象にとしてこれから、その論拠を語るとする。
 
 次の文言は、よく識者の人が現在発言されている言説である。
 
「様々な文化が消滅したら、それはもう取り戻せない。生き返らせること、取り戻すこともできない。」
 
「コロナ禍による倒産というものは、データとして取り上げられはするが、見えない倒産と同義の“廃業”といったものは、その倍、数倍、数十倍あることに誰も深刻な目を向けない。」
 
具体的には言わないが、文化や芸能、その名店の味など、失われたら、これも、人間の命同様に取り戻すことはできなのである。
 
 このコロナ禍による防衛策は、今や、ダイバーシティー社会というものを持ち出すまでもなく、世界各国まちまちである、ましてや時代においても様々である。他国(地理)や歴史など参考くらいにはできても、新型コロナウイルスのパンデミック禍の処方箋などにはならなのである。これにいち早く気づいて、異彩を放ち、小池百合子都知事に一歩差をつけたのが吉村洋文大阪府知事である。
 
 4月、5月と、アルベール・カミュの『ペスト』がバカ売れした現象は記憶に新しい。恐らく、世の一部の人々は、文学作品に癒し・救済・方策・教訓、巣籠もりのヒントなど様々な智慧(もの)を求めもしたのであろう。しかしである。このアフリカのアルジェリアのオランという町を舞台とした作品は、例えば、伊豆の大島、せいぜい、佐渡島程度のコミュニティー社会の中で起きたパンデミック現象である。その不幸・悪の状況下では、グローバルとか、経済とか、また、ビジネスとかサービス業といった範疇の問題は一切浮上してはこない世界での“パンデミック”でもある。
 ここが、実は、過去の中世のペストにしろ、近代のスペイン風邪にしろ、ましてやフィクションの、ファシズムをもメタファーとした『ペスト』の文学的世界においても、現代の経済・商業、そして、芸術・文化をも人質にした“武漢熱”とは肌色を別にするものなのである。
 東西冷戦後、世界は、中国共産党帝国主義の台頭は別としても、テロとの戦いにシフトしたように、ある人の言葉であるが、<ゲリラ的パンデミック>でもあり、経済というグローバリズムの一番の急所を突いてきた感染病でもある。ゆえ、過去の事例は参考程度で、処方箋など一切ならないものである。
 この視点を抜きにしては、新型コロナ対策は、間違った方向へと進むことを危惧してならない。
 話は逸れるが、2月の、安倍首相の一斉休校要請も同様のことが言える。別の機会で、その論拠を展開するつもりではいるが、各国別々、時代もまちまち、社会も色々、そして、老人、中年、青年といった社会人の世界と、少年少女、子供、幼児といった教育的世界とは全く肌色を異にするものなのである。つまり、オフィスにGood-byeはできても、教室にはGood-byeはできぬと、不思議なことに、誰も口にはしないのである。テレワーク、リモートワークとオンライン授業は本質的に別個のもの、魚と鳥くらい性質を異にするものであるとは、誰も主張していない不思議さが世の中を覆っている。単刀直入に申せば、“スキルを売ってお金をもらう行為”と“お金を払ってスキル、実はスキルだけではないのだが、それを身に着ける行為”とはそもそも、違うにもかかわらず、大人社会の手法・論理を少年少女に押し付ける愚、また、オンライン教育絶対是の風潮が、コロナ旋風同様に猛威を振るっている。この情けなさ、腰の引けよう、こうした見地からこのコラムで何度も強調してきた。
 
 では本題に戻るとしよう。ある組織のリーダーたるもの、自身の個人的経験を、それがどんなに、倫理的な、人道的な教訓であったにせよ、それを、組織全体に適応、強要、アピールすることが“どれだけ間違っている”か、個人的な是は、それを、集団の是とすると、組織は誤った方向、自壊へと突き進むものである。これは、私個人の考え方の流儀である。ある意味、個人の真実と社会の真理とは峻別が必要なのだ。もし、前者がそのまま後者に適用できてしまうのならば、世の中誰でも総理に、大企業の社長になれるということでもある。しかし、時たま、スティーブ・ジョブスのような天才が現れる。彼でさえ、リベラルアーツとサイエンスの交差点から芽生えた真理を、個人的真実のレベルに逆算したにすぎないのである。それがそうとは見えないところに彼の天才たる所以がある。実は天才とは、そういうものなのである。
 
 喩えは飛躍するかもしれないが、ある政治家、法律家、独裁者でもいいとしよう。自身の個人的恋愛経験、失恋体験など、また、自身の重篤な疾病体験などを、社会に、法規定にそのまま法制化するなどとはあり得ないのである。<愛と死>という、畢竟、人生上の重い命題を、個人的経験則をもとに法体系に、そのまま組み入れてはいない、入れられない、入れてはならない事実である。だから、東出昌大の女優杏に対して、また、芸人渡部建のタレント佐々木希に対しての不倫行為は、法律上何もペナルティがない代わりに、社会的制裁、いわば、世間の目という罰が下されるのである。何も、我々赤の他人は、東出や渡部の行為に、何の痛みも、葛藤も、不利益も、不快感も感じたりはしない。だから、「不倫は、彼らの勝手な夫婦間の行為で、社会的制裁などいかがなものか?」と社会学者古市憲寿氏はコメントされてもいる。
 
 安倍首相は、専門家委員会の助言(生命第一主義しか吐けない連中の意見)を全て鵜呑みにして、それを、この“田嶋幸三会長のような人間”の気持ち・言説を忖度して、文科省はもちろん、地方の教育委員会、学校長などを無視して、独断的ヒューマニズ的“ええかっこしい”根性でなされたことは自明である。死は悪、病気は悪、ゆえ、学者の医学的見地は、絶対に、自粛要請、経済に優先する。しかし、経済も、実は、死と隣合わせであることを一切考慮してはいなかった。
 
 これも、カミュの『ペスト』の小説の世界にかぶれた正義感に似た、政治的ヒロイズム{安倍首相の場合は、この言葉は、“政治的レガシーを残したいスケべ根性”といつも通底する}にかられたフランイングであった。“森・加計・桜”問題も、この自粛要請と同じ安倍首相の気質から出ていたものだ。ああ、先般撤回した“イージスアショアの導入”の動機もほぼ同じものであったであろう。トランプ大統領の政治的決断が、いつも再選・自己利益に裏打ちされていたように、安倍首相のそれは、いつもスタンドプレー的政治的レガシーをいかに残すか第一主義に裏付けされていたのである。このことは、両者の利害で一致をみたゴルフ外交で見事に証明されてもいよう。
 
 指導者たるもの、リーダーたるもの、それが、どんなに、痛烈で、苛烈で、死さえ目の当たりにした体験であっても、それを、組織、集団、社会に適応する、強要する、訴えることほど愚かなことはないのである。じっと心の中にしまい込んで、アレンジして、リーダーの金言に昇華する技能、レトリック、いや知性が欲しいものである。
 
 愛人をかこっていた松下幸之助、“悪妻”を愛した野村克也、個人と組織とは一線を引いて、会社、チームを育てあげた偉人でもある。
 最近では、藤井聡太7段の棋譜があげられよう。非常識、常人離れした、常識はずれの戦法として有名であるが、彼の日ごろの、日常の立居振舞や発言は、常識人・未成年ながら模範生そのものである。まっとうな模範的高校生でもある。坂田三吉や升田幸三の如きキャラが高校生でそのまま存在しているのではない。
 人間とはそういうものである。
 
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)
{※パンデミックは歴史には学べない。参考にする程度である!といのも、社会(医療)が進歩発展するからである。そして世界は政治的・経済的なグローバル化により複雑に絡みあう複合体ともなるからである。まるで人間の身体のように!}
 
 これを、わきまえておかぬ“(おさ)”は、部下や国民を不幸へと導くものである。
 
 この田嶋幸三会長と対局にある発言を挙げておこう。芸能界の“老子”的タレント、所ジョージの言葉である。
 
「ワタシは何ら変わってないよ、何にも」  タレント 所ジョージ{デイリースポーツ 2020年 6月3日(水)}

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