コラム

勉強におけるセンスはビジネスのそれに同じ!

「本番で無意識に身体が動くように、意識的に練習する。」(落合博満)
 
 ここに一冊の本があります。水野学氏の『センスは知識からはじまる』(朝日新聞出版)というものです。筆者は、熊本県公認キャラクター「くまモン」の生みの親でもあるクリエイティブディレクターです。佐藤可士和の次の世代で、現在大いに活躍されてもいる方です。本書は、ビジネスにおけるブランディング、差別化によるイメージアップ戦略を手掛ける企業のセンスというものについて語ったものです。しかし、大学受験をする高校生、数学、国語、英語などを生徒に教える教師にとっても説得力をもつ書です。では、この書の題名“センスは知識からはじまる”の妙を一番要領を得て語っている箇所を引用します。
 
 良きセンスをもつには、知識を蓄え、過去に学ぶことが大切です。同時にセンスとは、時代の一歩先を読む能力も指します。
 はるか遠い未来に飛んでしまっては、消費者は未知のものへの恐怖や違和感を覚え、ついてきてくれないと述べました。アウトプットそのものは時代の半歩先であるべきです。しかし、半歩先のアウトプットを作り出すためには、一歩先、二歩先を読むセンスがなければならないのです。
  過去を知って知識を蓄えることと、未来を読んで予測することは、一見すると矛盾しているように感じます。しかし、僕の中でこの二つは明確につながっています。知識量にもとづいて予測することが、センスだと考えているのです。(P86)
 
※過去問(赤本)を解いても、それが本場に活かされる受験生か否かの分岐点です。
 
 このセンスを有していた典型は、昭和歌謡曲の大作詞家阿久悠であり、バブルのOLを先導したユーミンこと松任谷由実でもあった。また平成の秋元康でもある。
 
 それを、受験レベルに置き換えると、MARCHレベルの大学に入りたければ、早慶上智の過去問にチャレンジするくらいの気概を持てとも言われます。MARCHに合格したい受験生は、MARCHレベルの問題だけをやっていても、結局は、日東駒専レベルの大学止まりであるといった受験の摂理と同様のものを感じてしまうのです。
 
 まず余談ではありますが、今流行りの小学校から高校に至るまでの、文科省が掲げたキャッチフレーズ「思考力・判断力・表現力」には少々矛盾する見解であることを心にとめておいていただきたい。この崇高なる理念は、“センス”に帰着するということがいいたのであります。
 
この一節を読んで、数学のベクトルの問題を20題解けても、また、解けなくても解答を見てああそうなのか!と理解しても、その経験値(チャレンジした問題の量)が、模試のテストや本場の入試で生かされる、生かされない、その分岐点が知識をセンスで結びつけているか、いや、知識からセンスが育っているか、その差で表れてもくるのです。その無意識の実行者か否かが、成功失敗の分かれ道であることを証明してもくれている。解いた問題の経験則の有機的結びつきの力、ひとまず、それを数学のセンスと呼ぶことにしょう。
 
 また、英文法の問題集を一冊、構文の参考書も一冊、きちんとやっても明暗がわかれるのも、文法と構文の結びつきというセンスを持っている者、身に付けた者、その差も水野氏の弁が指摘してもくれている点である。木を見て森を見ず、これが文法単眼者、森を見て木を見ず、これが、文法軽視者、この両眼・複眼を得た者が、英語のセンスがいいと申せましょう。その手っ取り早い手法{※教師にも生徒にも}が、今流行りの音読とも言えるのです。
 
 話は脱線しますが、バブルの時代流通業界もダイエー・ジャスコ・ヨーカ堂と比べ、西友(西武)を率いていたセゾングループがセンスの良さでピカ一抜きんでていたのは、作家でも、文化人でもあった堤清二の気質がそこに反映されてもいたからであろう。この点で、中内功も、岡田卓也も、伊藤雅俊も足元にも及ばなかった。
 
「先々の事業計画のために、このベンチャー企業を買収しよう」などと、先を読む能力に長けた経営者がいます。彼らは優れた経営センスがあり、非常に感覚的だと評されることが多いようです。実際に、「社長はどうして市場の先行きが予測できるのですか?」というインタビューに対して「長年の勘です」と答える経営者もいます。
 しかし僕の見たところ、こうした社長はおそらく、市場についての膨大な知識と経験を備えており、それをもとに自分なりの予測を生み出して、経営判断しています。一連の思考プロセスを言語化するのが難しいために「勘です」と答えているだけのような気がします。(P86~87)
 
※長嶋茂雄がバッティングの指導をする際、擬態語・擬音語を用いる行為がその典型です。
 
 これは、数学の問題を同じ量だけ解いた、英語の勉強を同じ時間した、しかし、出来る出来ないの開きが生じるのは、ある映画を観たとする、その映画を観終わった後の感想とあらすじをてきぱき、明瞭に説明できる、友人に説得力を交えて、その映画の素晴らしさを雄弁に語られるか否かの分岐点と同様のものがあるような気がします。これは、まさに現代文の読解問題と通底する点である。ただ内容の理解、把握に追われる者、映画を主観的、自身の楽しみの世界だけに浸って悦になっている者、一方、もう一人の自我が存在し、その文章、映画を録音・録画するスキャン能力を有する者、その差といってもいい。この余裕こそ、小学校の低学年の読書習慣で養われるものなのである。
 
センスの最大の敵は思い込みであり、その主観性です。思い込みと主観による情報をいくら集めても、センスはよくならないのです。
僕たちはみなそれぞれ、自分なりの思い込みを持っています。考え方、これまでの生き方がその人の100%をつくり出しています。ファッションに限らず、ビジネスにおけるプランや企画においても、僕たちはなかなか主観性の枠から自由になれません。
なかなか自由になれないからこそ、意識して思い込みを外すべきだと僕は感じます。思い込みを捨てて客観情報を集めることこそ、センスをよくする大切な方法です。
 僕は半ば冗談、半ば本気で「学校にセンスを教える授業があればいいのに」と言いますが、これは学校教育こそ客観情報の集め方を教える効率的な仕組みだと考えているからです。歴史の知識、数学の知識は客観情報として与えられるのに、美意識にまつわる知識はすべて自己学習として放置されており、その結果、客観情報を集められるAくんと集められないBさんという差が生じてしまう気がしています。(P92~93)
 
※同じ名著である参考書を読んでも、同じカリスマ講師の講義を受けても、その差が生じるのは、実は、様々な科目の根底に、国語が横たわっている真実というものがある。それは、思い込み・主観性を排除するうってつけの手段は、読書から学ぶ論理であり、それは“情緒”から、幼少期・子ども時代無意識に身についてもいるものだからです。
 
 ここでいう<思い込み>とは客観性の大敵のことであります。この<思い込み>は、現代文という教科の最大の“悪霊”でもある。特に、センター試験や私大の選択肢問題のほとんどは、この“メフィストフェレス”が自己の内面に出現して、あれこれと自身に失敗のヒントを囁いてもきます。幼児期の本の読み聞かせ習慣の中にいた小学生、また、小学生時代の読書などの習慣を身に付けた中学生は、禅僧の如く、その“悪霊”に悩まされずに済む、その“悪霊”の幻影を観ずに済むということである。読書というイニシエーションを小学校の段階までに未経験の者は、中学受験の物語文を読んでは、また、大学受験の論説文を読んでは、そのテキストの中に、<主観の化け物>が入り込んでくる。その結果、魑魅魍魎たる選択肢の中から、誤答を正解と思い違いしてしまう錯覚に陥るのです。ここに、幼少期の読書という修行の場で、国語という修羅場をサバイバルできる武器、いわゆる、センスというものを会得したか否かが、受験という関所を難なく突破もできるかの別れ道ともなるのです。これは、まさしく私の経験則でもあります。現代文という科目を解脱できるか否か、それは、自身の内面でこの<暗黙知>がどういう経緯で形成されてきたのか、されてこなかったのか、その『方法序説』的「コギト・エルゴ・スム」=”強烈なる自我の自覚”に始発点があることを自覚しなくてはならないものです。
 

 

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