コラム

教育は国家百年の大計である

教育は国家百年の大計である
 
 近年のビジネス誌「東洋経済」「ダイヤモンド」「プレジデント」「エコノミスト」など、その特集は、教育のジャンルが非常に目に付く。大学、中高一貫校、附属か中高一貫校か、早慶特集、MARCH特集、企業に評判のいい大学などなど、毎月どこかしらのビジネス誌が特集を組んでいる。「アエラ」も月に数回は、必ず教育関係の特集を掲載している。働き盛りの親御さんにとって、自身の企業への関心以上に、我が子の教育への関心度が高いことの証拠であろう。つまり、ビジネス誌でも教育を特集した方が売り上げが伸びるということでもある。「サンデー毎日」が、3月号と4月号が一番売れる現象と同じである。
 
 今や、時代が、昭和の頃と違い、子供より親が教育熱心、教育への重要度を認識しているのか、昭和の高卒の個人商店の親の子供たちが大学を目指していたのに対して、令和では、親が高学歴で、教育熱心で我が子はのんびり、それは、ゆとり世代、さとり世代、Z世代と、さらに平成不況とデジタル化が親子逆転現象を起こしたとも考えられる。もちろん少子化は言わずもがなである。その証拠に、現在TBSで放映されている「ドラゴン桜」のドラマも、恐らく、中高生より、その親御さんが観ている可能性大と言えよう。その親の姿の究極は、「受験は母親が9割」という教育ハウツー本を出してもいる教育評論家(?)、我が子4人を東大理Ⅲに入学させた佐藤ママこと佐藤亮子さんが、その典型でもあろう。
 
 私は、幸運にも、朝日、読売、毎日、日経、東京、神奈川と各一般紙に毎日目を通すことができる{※読む時間などないのでチョイス読みである}のだが、教育ジャンルに関しては、ビジネス誌ほど、特集を組む率が低いのである。話は逸れるが、毎月観ている「朝まで生テレビ」などは、コロナ禍のここ2年、仕方がないことだが、コロナ関係のみを議題にしてきた。コロナ禍以前の数年は、安倍政権関係ばかり、つまり政治・経済のみであったという記憶がある。「朝生」で教育が特集されたのは、もうひと昔前、前回のドラゴン桜放映(2005年)くらいであっただろうか?それくらい教育問題は、ジャーナリズムに軽視(?)されているのが現状である。
 
 平成に入り、政治は混迷、経済は低迷、教育は頑迷である。教育は、理想ばかり、理念ばかりの教育改革で、政治と経済に置き忘れ去られ、“金は大学自身で賄え”これ、国公立の独立行政法化である。初等中等教育に関しては、<自助>、即ち、学校ではなく家庭個人で塾・予備校で学力をつけなさい方針の風潮である。小中などが、義務教育の学びの機関とは言いながら、朝8時から夕方4時までの不良化の防波堤、いわば、“託児所”にまでなれ果てているのが実態である。その証拠に、今週号の「ダイヤモンド」特集は、“教師大全=出世・カネ・絶望=“である。学校が、ブラック職場と化している現状を見せつけてくれている。教師になりたい学生が激減している現状もうなずける。
 
 国公立大学の準私立化(⇐財務省の方針)、大学入学共通テストの民間試験委託(頓挫)、デジタル教科書導入(⇒IT関連企業成長)、教育を民間の力に委ねる政策を推し進めながら、25人クラスの導入(※35人なんて多すぎる)、教師の増員、部活動の民間委託など、“政府に都合が悪い、お金のかかることは、嫌だ!”こんな政策をしていると、亡国へ、傾国へ、国力の衰退を招く近道である。
 
 社会がひどく、学校がどうにもならない、そうした環境で育っても、家庭がしっかり、幸福であれば子が健全に育つように、国家とは、政治や経済がどうしようもなくても、教育だけは、譲らないという姿勢を貫き通せば、やがて政治や経済もましとなる時代を招来する。教育が国家の根幹なのである。政治と経済の附属品としか考えなくなっている風潮が、教育改革の正体である。

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