コラム

哲人ハードラーの意見と私の弊著の主旨

 毎週観ているテレビ番組、Eテレの【心の時代~宗教・人生~瞑想でたどる仏教~心と身体を観察する‘3回’~】(2021年6月26日)で、私が弊著『英語教師は<英語>ができなくてもいい!』の中で主張した“英語教育観の急所”を哲人ハードラー為末大さんが、ものの見事に語っていた。彼は、『走る哲学』『禅とハードル』という興味深い本も書いています。そして、弊著でも言及している彼の言葉「ボルトの手法を真似てもボルトになれない」{※オリンピアンの手法を真似てもオリンピックには出られない。東大生の勉強法を真似ても東大には受からない。自己のアレンジや工夫も必要だということでもある。}も頭に入れておいて欲しいと思います。
 
 東京大学大学院の蓑輪顕量教授から“菩薩”という存在の説明の段になった時、「その菩薩が自らは悟りの境地に達していないものの、自身が悟りを導く存在である」ということを聞いて、為末さんは次のように語っていた。
 
 今言われたのは、その本人が悟りを開いていなくても、他者を悟りに導いていくとうことですかね?私たちの世界で、コーチングの役割でオリンピックに行っていないコーチはオリンピアンにオリンピックのことを教えられるかという問いがあるんですね。よく選手は疑問を持つんですね。できるから教えられるんだろうって、でも今は認識が変わってきて、できることと導けることは違っていて、選手を教えているんではなくて、選手に伴走しているんであって、選手がそこに行こうということをサポートしている。常に選手を上回る経験をもっている必要はないんだという考えに変わってきている。
 (話を)伺いながら、指導者って自分ができることを伝えるっていうイメージがあったんですけど、自分が悟らなくても他人を悟りに行く人を助けよう、自分の経験とは関係なく、フェアな関係で支え合うみたいな、フラットな関係を、私たちの言われている世界に(仏教での菩薩の役割)に近いなと思って、悟ったから悟らせるんだ、ではなく、自分が悟っているのとは関係なく支援する、一方的ではないと思いましたね。
 
 弊著の主旨と為末大さんの言説が、今もってお分かりになられぬ教師や語学学習者、学生が多い。特に文科省の連中がその典型です。受験エリートの官僚が、ある意味で<できそこないの‘如来’>になっているから<真の“菩薩”>の気持ち、境地、立場というものが分からないのです。東大の底辺部の連中より、早慶の上層部の方が、周知のように社会で大成する可能性が高いという真実に近いものがあります。
 
 今や、時代は、“学歴より学び歴”の時代です。これは、真実であっても、世の愚昧なる大衆は、このことを深く認識してはおられません。だから、知人や教え子に、次のように語るのです。
 
「<学歴>は世の愚者をあしらう盾として、そして<学び歴>は世の賢者と勝負する矛として弁えよ」
 
 『人は見た目が9割』、こんな題名の新書がありました。その説を広げると「世間は肩書が9割」とも申せましょう。この側面への防衛策であります。英検1級やTOEIC満点などは、‘バカな教え子’のために、一応は取ってきなさいということになる。こうした‘見た目にこだわる生徒’は‘オリンピック経験指導者’じゃないと指導は受けぬというブランドかぶれの人間ともいえる。一方で、この私の「言葉」の真意をご理解できる人は、為末さんの指摘に耳順するはずです。世は、バカなる語学修練者に満ちあふれてもいる。
 
 では、この弊著の主旨と為末さんの言説を敷衍してゆきましょう。
 
 早慶MARCH出身の者が、東大京大の教授になれないか?早稲田の政経学部を出て、社会科の教師になって日本史や世界史を、文学部史学科出身者以上に上手に教えている者はいなか?慶應の文学部で太宰治を卒論にして、高校で予備校講師も引けをとるほど上手に古文が教えられる教師はいないか?日体大で体操をメインでやってきた体育教師で、球技の技能を見事に教えている教師はいないか?などなどである。では、人格的に少々問題がある国語教師は、教室で仮面を被り道徳教育は行ってはいけないのか?といった少々哲学的命題にまでぶち当たります。その答えは、親鸞聖人が教えてもくれている。この点、弊著でも深く言及されてもいる。更に論を広げると、教員免許を持っていない者は、所持者以上には、少年少女に勉強を巧く教えることができないのだろうか?といった文科省への論題にまでぶち当たってもきます。この点、教員免許の10年更新制度など愚の骨頂以外の何ものでもない。すぐに撤廃すべきものであります。恐らく、将来的に廃止されると私は予言しておきましょう。
 そもそも、英語教師、英語講師なる存在は、これも最近私が、よく周囲の人、また賢明なるご父兄にも話す喩えであります。
 
 「英語教師とは、ネパールのシェルパの如き存在である」
 
 ご存じの方もおられましょうが、ヒマラヤ登山におけるシェルパとは、海外からの登山家を補佐する現地の運び屋専門の登山者であります。彼らは、西欧のエベレスト登頂を目指すクライマーの補助をする仕事を生業としている人たちです。主に、彼らは、5000メートルくらいまで、食糧やキャンピング用品を背負って運びます。5合目、6合目、そしてその地点や山全体の特徴など、また危険ルートなどアドヴァイスするのです。彼らには、エベレスト踏破などという野心や目標などありません。あくまで、海外のプロの登山家の補助に徹します。それで生計をたてているにすぎません。そんな登頂に興味も関心もありません。もちろん、やろうと思えば、彼らにも登頂は可能かもしれません。しかし、それは、別次元の話です。シェルパには、6合目以上の経験もないし、また必要性もない。シェルパとは、代金を頂いて、5合目、6合目までの導きをすればいいだけの話です。この5合目が、MARCHレベルの英語です。6合目が、早慶上智レベルの英語とでも申しあげられましょうか。まあ、英検準1級くらいとでも言えましょう。それ以上は、英検1級やTOEIC900点以上であり、高校生には必要ない、そんな英語に費やす時間があれば数学や理科といった科目に費やすべきなのです。シュルパになるのに、エベレスト登頂のタイトルホルダーは必要ないということでもある。
 英語教師というものは、実用英語はその程度でよろしいが、ネイティブも読解の難儀する文学作品や哲学エッセイなどの類は、彼ら以上に深読みできなくてはなりません。そして生徒にその英文を理路整然と説明できなくてはなりません。それは江戸時代の荻生徂徠や伊東仁斎が、チャイニーズカンバセーションはできなかったものの、中国人学者以上に四書五経の真髄を理解できた学びの姿勢と底通するものがあります。
 
 先日亡くなられた、ジャーナリストで“知の巨人”とも称された立花隆氏などの話す英語を聞いたことがありますが、発音など早慶のちょっとした英語ができる学生以下であり、使うフレーズも大学受験でよく参考書などで読み覚えのあるものばかりでした。彼は、英会話など通じて、質問できればいい、そんなものに時間を費やすくらいなら、世界の、日本の、名著や文献・資料を読みこむことを最優先していたことでしょう。
 ネイティブのように、風俗に起因する流行語だの言い回しなど覚える語学熱心な社会人がおられます。また、日本の新聞もテレビニュースにも疎遠なる社会人が、いざ英語となると、時事英語など、政治・経済用語の英単語を夢中になってお勉強している姿は滑稽そのものであります。
 
 社会人のみならず英語教師にもいえることですが、英語の鍛錬は、菩薩のように“ネイティブ”の領域になど至らなくても、日々、日本語の書籍による読書を怠らず、その教養をバックボーンとした英語教師を目指すべきであるというのが私の持論でもある。
 
 だから、言う、「英語教師は<英語>ができなくてもいい!」と。ただし、知性と教養ならば、英米人も舌を巻く息に達していなければならないと。
 その模範とすべき英語学者を挙げておきます。 近年お亡くなりになられた方々である。世に多い、英語教育だけしか持論を展開できない愚鈍なる英語学者・語学講師・学校教師とは全く別の次元の賢人たちであります。
 
外山滋比古:巷の学生や社会人に世の処世術・学び方に多大な影響を与えた
 
鈴木孝夫:他の言語学者や“英語と日本人”の関係性に様々なヒントを与えた
 
渡部昇一:政治や経済、特に独自の歴史観をお持ちになられていた
 
<補記>
 よく留学経験がなくても、ネイティブ顔負けの英語の使い手の猛者がいる。野球人も同様である。メジャーリーグなどに疎遠でありながらも、メジャーリーグの野球理論の先をゆく野球観を大成した野村克也である。

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