コラム

教育論はビジネス論とはわけが違う!

 東日本大震災の後、東北の湊町に巨大な防潮堤を築いた地域があった。海の見える生活、美しい景観、それよりも防災対策を優先した町の方針である。私なんぞは、こんな巨大な防潮堤など不要論者であるから、なんて馬鹿なことをしたかと呆れかえる。コロナ禍で、政府や異常父兄に雷同するパンデミック過剰反応学校も同様である。
 
 将来、近未来、そして遠き未来を予測するのは勝手である、不要無用のお節介というものである。そのお節介者が、書店に今や跋扈している。
 
 ここ最近、近未来を予測して、その未来社会への心構え、対処法、生き方などを説き、そして、こうしろ、ああしろとやたらと教祖様面で、部数を伸ばす知識人、いや、奇人・変人・変態{落合陽一・成毛眞・堀江貴文}が目に付く。彼らの吐く言説は、国家、社会、会社、組織、社会人という範疇においては、5割正論といっておこう、2割は極論、3割は暴論・理想論ともいえるものである。よって、AI社会への移行期の真っただ中にあっては、社会人・企業人が拝聴するには、参考にはなるものが多い。
 
 AI社会とは、言い換えればデジタル社会のことであり、落合氏がよく引用する‘デジタルカルチャー’といった空気で席捲された社会のことでもあり、その中で生きてゆく術をわれわれ庶民にお説教している感が否めない。社会や会社は生き馬の目を抜く勢いで進化、進歩してゆくのは必定である。その一方、寿命がたかだか100年足らずの人間は、進化、進歩なぞするものであろうか?だから、デジタルネイティヴやらデジタルイミグラントという用語で、デジタルディバイドを説明し、できれば後者から前者へ変われ、脱皮せよと声高に叫ぶのであろう、ましてや、我が子をそのネイティヴに育てよ恐怖心を煽るかのように主張されてもいる。
 
  デジタルカルチャーと申し上げたが、アナログカルチャーとは言わない。アナログ文化がせいぜいであろう。サブカルチャーやポップカルチャーとは言いえて妙であり、市民権を得てもいる。つまり、日本語はアナログであり、英語はデジタルであるその本源でもあり、その表徴でもある。なんでもかんでもカタカナ表記にすると文化が薄っぺらいものになるその証拠である。某東京都知事も、カタカナ用語連発である。彼女からは、文化の文の字さえ漂ってはこない。
 落合氏が、首肯する、世を覆いつつあるデジタルカルチャー像なるものが市民権を得る、認知されればされるほど、アナログや文化というものが木造建築物、古民家、森林のごとく都市の周辺へと、絶滅へと追いやられる宿命を負う様相を呈してもいる。
 
不易流行という、変わるべきもの、変えてはいけないの、その線引きが、もっとも必要とされる領域が教育なのである。
 国家レベルでは、安保という概念があるが、その3大安保が、軍事安保、食糧安保、そして教育安保である。軍事安保は、国家予算をできるだけつぎ込んで進化、進歩しなければならない。教育安保は、極論ではあるが、出来るだけ進化など不要、進歩もしない、というのも、人間は50年前、500年前とそんなに本質は変わっていない生物だからである。その不変の関数、文化度というものがある。それは、衣服や居住空間などが変化し、人間の精神に“進化”をどれだけもたらしているかの変数のことだ。しかし、それは錯覚でもある。古典作品に音楽であれ、文学であれ、共感するその力は、生物としての感情を基盤とした精神の伝統が脈々と流れているからでもある。心というものと精神というものの違いが分からぬ輩はこの<心の定理・公理>が理解できぬものである。
 
 『AI時代の子育て戦略』(成毛眞)という書籍の題名に用いられてもいる、戦略という語である。教育に戦略など用いる場合は、受験勉強・就職面接・資格試験突破など、知の領域の必須の手段、いわばハウツーの部類にすぎない。ましてや、子育てという段階で、将来の勝者敗者を眼中に入れた考えなんぞを用いるその料簡が分からない。内田樹氏だったか「教育なんてものは、子どもがどう育ってゆくのかを予測計算してするものではない、むしろ、何の役にも立たないということを前提にすべきものである」と語ってもいたが、時代は、教育にもサービス産業化の波が押し寄せ、顧客でもある父兄もコスパ思想に毒されている証拠であろう。
 
 子育てに戦略などあるだろうか?あるとお考えの方は、この文章をこの時点でお読みになるのをおやめになった方が賢明である。その通りに、親が望む通りに、筋書き通りに子どもは育ってくれるであろうか?その目論見の、超極端な例が“毒親”という存在である。「あなたのためだから!」を金科玉条に我が子を折伏するモンスターである。それは、知の驕り、理性の過信というものである。それは、科学、ビジネス、自身の半生における成功体験、成功法則なるものを教育に当てはめようとする文明の甘い蜜の味を知った理性第一主義者でもある。本能が半分以上生活を律してもいる幼児から子ども、そして思春期にあたる少年少女を理性でもって律することなどできるでありましょうや?ましてや、我が子の資質や気質も見抜けぬ親が、我が子の将来像の予防線など張り巡らすことなど、果てして可能でありましょうや?北朝鮮のミサイルを打ち落とせると楽観視しているイージスアショア推進派と同じ思考回路の御仁でもありましょう。
 蔦や朝顔の蔓がどのように伸びてゆくのか、また、挿し木からそのさつきの盆栽がどのように何千万もする名品に生長するのか、また稚魚から何百万もする錦鯉へどう養殖するのかなどなどは想定できない、予想すらできない領域である。
 
 子が将来親の危惧する職業や人間になって欲しくないという“お節介的”親心で、子育てをするのが、親の悲しい性でもある。お考えくだい。今、30代から50代の社会人、親御さんが、どれほど自身の人生設計どおりに、思惑通りに歩んでこなかったか。恐らくでありますが、1970年代、日本を含めて世界中でサルトルの実存主義がブームとなった所以はそこいらへんにあったと思われます。「人間は自らつくるところのもの」であり「人間は親がつくるところのもの」ではありません。人間も国家も社会も同様であります。その点、今の中国共産党国家はいずれ限界がくる、破綻すると予言しておきましょう。“毒親”という習おじさんがいるからです。
 子どもという成長の先が読めない生き物を、どう枝が伸び、葉が増えてゆくのかもわからない植物のように、盆栽家の如く、我が子に針金で、縄で、己の好む方向へ育てよう、それが我が子の将来への危機管理対策でもあるかのように錯覚されているバカ親がいかに多いか!実は、真の教育とは、その子に、大人になった時のその時代、社会への適用力、いや、違う!その激流に流されても生き抜く覚悟・底力を植え付けてやることなのです。それこそが、<生きる力>というものの正体でありましょう。
 
 「教育とは、学校で学んだ事でも卒業した後にほとんど忘れて、さらにその後いつまでも残っているもの、そのことである」
 「教育とは、将来自身がやりたいこと、なりたい仕事、そうしたものに独力で成就できるそのエネルギーと知恵を授けてあげることだ」
 
 こうした文脈で言わせてももらえは、どうも、落合、成毛氏の説く教育論なるものは、将来の癌保険、エンジェル投資家が、数百社のベンチャー企業に投資する行為に思えて仕方がないのです。お金があって、なんでもかんでも習い事やお勉強をさせて、我が子が夢中になるものを続けさせよと同義であります。それが、吉とでるか凶とでるか、それはゲームをやらせておけばいい、スマホを与えてあげればいい、そうした考えです。その末路は想像できましょう。
 
 堀江貴文氏が、教育実践家藤原和博さんとの対談で、「ホリエモン、もし今君に子どもがいたらどう育てるつもり?」と聞かれ、「まず子どもには欲しいものは何でもあたえますよ。やりたがっていることなら何でもやらせますよ。」と応じていたことが、やはり、教育面にはかかわらない方が賢明な方でもあると感じた面です。馬脚を現した点です。「じゃあ、スマホは与えるの?」「あたりまえじゃないですか、当然与えますよ」自身の子ども時代と今現在の成功した自身の立ち位置とを点と点とを結びつけて、令和の子ども教育論を語っているとしか考えられません。
 
 その点で対照的なのは、花まる学習会代表の高濱正伸先生が推奨され実践されてもいる自然の中でのキャンピングや遊びなどを経た高学年の小学生のケースです。彼らは、4年生からサピックスや日能研経緯で、真の開成生や麻布生になってもいるような気がしないでもありません。
 理性や知性では御することのできないものが子育てであり、その延長線上にある初等教育というものである。子育てに、教育に戦術や戦略などというものはない、ましてやAI社会に備えた、プログラミングなどのデジタル教育ですらない。あるとすれば、文化を意識した、文化というものを重視したアナログという臨機応変、融通無碍に、時代に適応し、時代を生き抜く野生の知を育む土壌を耕してあげればいいということです。それは、自我に目覚める思春期以前は、できるだけ、文明から距離をおくことです、できれは、小学校までに自然に慣れ親しんで、身体を動かし、自然の中で、アナログの遊びの中で育てることです。その意味でも、養老孟司氏が社会人向けて勧めてもいる都会と自然の“新参勤交代”こそ、実は、幼児から子どもにかけてむしろ推奨されるべきものなのです。
 

 

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