コラム

内村航平の記者会見から感じたこと

 先日、体操王、内村航平が引退した。その記者会見で、彼に劣らぬくらいそのジャンルのカリスマアスリート、羽生結弦や大谷翔平の例を挙げ、やはりスポーツ選手は、その技能や実績はもちろんだが、人間的にも周りから評価される、また、尊敬されるスポーツ選手でなければならないとコメントしていた。
 
 後輩たちへ
 体操だけうまくてもダメだよと伝えたい。人間性が伴っていないと。大谷翔平君もそうですし、羽生結弦君も人間としての考え方が素晴らしいなと思うからこそ、国民の方々から支持されていて、結果も伴っている。そういうアスリートが本物なのかな。 
                      日刊スポーツ2022年1月15日
 
これは、至って当然のことで、相撲界では、昔から、心技体という、心のメンタル面、心の御し方、心の保ち方など、それが、ファンや大衆に、やっぱりと徳的側面で重視されていることからも当たり前のことである。
 巧ければそれでいいのか、強ければそれでいいのか、モンゴル出身のヤンチャ横綱朝青龍や苦悩の大横綱白鵬などが、そうした面で考えさせてもくれる。
 ではここで、アスリートしては、超一流とまで言わなくても、一流にすら、二流にすらなれなかた選手というものは、引退後、指導者として、あまたのアスリートを育成し、また、チームを何度も優勝へと導いたコーチや監督はいかがなものだろうか?その典型が、青山学院の原晋監督であり、また、日ハムを率いて大谷をメジャーへと橋渡しした栗山監督などでもあろう。
 先般ショパンコンクールで52年ぶりに2位{※2位でもすごいが、1位ではないとこがミソである}に入賞した反田恭平や東京オリンピックでメダリストになれぬまま、いさぎよく引退した大迫傑{※最近は、現役復帰宣言をした}などは、これから、後進の育成に向けて、スクールなどを立ち上げる宣言を掲げたが、どうも、テッペンを極めるより、テッペンに登り詰められなかった鬱憤のほうが、人生第二ラウンドの引火の火薬となっているように思えて仕方がない。その典型が、派手さや記憶の強烈さで長嶋茂雄に負け、記録では、王貞治に全てを塗り替えられてしまった野村克也の怨念・執念みたいなものが残滓として、熾火の如く、むらむらと燻ぶり続けるエネルギーが、その後の人生の第二ラウンドでは、また、輝くということでもあることを教えてもくれる。また、天才井深大と盛田昭夫コンビのソニーに内心、コンプレックスや忸怩たる思いで、技術や刷新力ではなく、経営哲学、商人道徳で、エレクトロニクス産業の天下をとろうとした松下幸之助などにも当てはまる。
 劇画の“あしたのジョー”が、完全燃焼して、燃え尽きて、灰になって、その後、名トレーナー、ボクシングジムの名オーナーとなりうるかという問いも投げかけてみたい。昭和の名ボクサー、輪島功一やガッツ石松が、その後、団子屋やタレントとなった末路に思いを巡らせば、矢吹丈の後半生も想像がつく。
 ここに、昭和から平成の予備校全盛時代に、予備校講師となる者が、名講師、スター講師となるものが、ほとんどが、浪人経験者あったという真実にも、ある意味、アスリートやミュージシャンと同様なことが適応できるような気がするのである。
 では、ここで、原晋監督や栗山監督のように、選手から慕われる、尊敬される、そうした気質が、予備校講師に該当する、必須であるのかというテーマも浮かび上がってくる。
 
男女関係で、週刊誌などを賑わわせた、元カリスマ英語講師のN氏や、元カリスマ国語講師のI氏などは、アスリートと監督の人徳的側面の要素が絆ともなっているのと同様な関係が、高校生や浪人生とその科目の講師の関係にも該当するのかといった問題である。
教え方が上手けりゃ人間的側面は目をつぶるのか否かといった問題でもある。それは、今年度日ハムが監督に招聘した新庄剛志などが典型でもあろう。恐らく、新球場新設など経営面第一で、客寄せパンダ、日ハムの広告塔の役割が第一であることは、「面白くなければテレビじゃない」というフジテレビのCMコピーを彷彿とさせる人材登用でもある。
 スポーツ界で、人気者、得に、長嶋茂雄を再度監督に据えたり、後年、“終身名誉監督”というむず痒い名称を冠した読売の魂胆と同じものを新庄日ハムに感じてしまう。
 マスコミの定理ではないが、人気者第一主義、人気者から注目を浴びさせる、そしてその業界やチームを活気づける、そのためには、その人物のいいところ、よい点などをヨイショ的ファショ流にもち上げる。背番号90時代の長嶋への世のバッシング、現役時代、野村監督の下の新庄への批判、こうした欠点をあたかも、戦前の軍国主義から戦後の民主主義に手のひらを返したかのような風潮同様に、長嶋、新庄の世の持ち上げ方が私には気に食わない。やはりへそ曲がりの気質でもあろうか。性格が明るく、ポジティブ思考で、パフォーマンスに長けたアスリートならば、“負”の側面は、許される、日陰に置かれる、覆いをかぶせられる、そうしたスポーツ界に異議を唱えるジャーナリストは皆無である。自身のマスコミでの<食いくいっぱぐれ>を招くからでもある。
 
 ここでであるが、塾や予備校講師というものは、教え方とその先生の人格・キャラというものを天秤にかけた時、教え方さえ超一流なら、人間的側面がいまいちでも寛容になってしまう、いや、後者を求めてはいない教育産業界の定めなのでもあろうか?ネット社会、オンライン授業、YouTube授業などでは、その講師の真のキャラなどわからないものである。
 デジタル化社会での、スマホ学習、オンライン学習、映像授業など、余計な内容をカットし、その科目のコンテンツだけを超分かりやすく教えれば、それで用足りるという状況を求める世の風潮も時代の変化なのであろうか?それは、学校の教師、いわゆる教諭といった人種の人々へも波及している。
 令和の高校生は、塾・予備校のその科目のエース級の講師の授業を目にしている、その肥えた目で、自身の学校のサラリーマン化し、昭和の教諭より数段教養や人格に劣る(?)現場の先生の授業を見てしまう。教えるスキルは、見劣りするし、雑談や語り口など、お笑い芸人で肥えた目や耳といった感性で、自身の先生の話が退屈に聞こえてもしまう。タレントを切磋琢磨し、自身の話芸もシナジー効果で磨きかけてもいる林修と凡庸なる現場の現代文講師の違いでもある。現場教師の浅い知識や軽い教養の面で、昭和の師弟の開きが、ネット社会で、いまや逆転してもいる、さらにDXへの適応度からしてさげすまれさえしている。
 アスリートの世界で、技能を教え、人格面をも陶冶するその世界のコーチや監督と選手との関係は、教育というジャンルでも、科目を教え、尊敬や敬意の念が育ってゆくそれと似てもいる。中等教育の教師・生徒の関係は、もはや一昔、二昔以上前のテレビドラマや小説のフィクションの話となりつつあるようである。ネット社会の教師・講師は、生の授業でないこともあり、知識と教養、勉学と人徳、こういった関係を解離させているように思えて仕方がない。

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