コラム

文Ⅱが文Ⅰを越えた、文Ⅲが一番難しくなるであろう

 波頭亮氏の『文学部の逆襲』〔ちくま新書〕―人文知が紡ぎ出す人類の「大きな物語」を読んだ。詳しい感想や、書評は、別の機会に述べるとして、まず、この新書の題名、そして、波頭氏と茂木健一郎氏とのYouTubeでの雑談でも、波頭氏が言及していた興味深いことを語ってみよう。
 
 まず、今年度の東大の文系偏差値が、文科Ⅱ類が、文科Ⅰ類を上回った“事件”である。言わずと知れた、文科Ⅰ類は、別名法学部、官僚の養成機関として、エリート学生の第一のコースであった。一方、文科Ⅱ類は、別名経済学部として、官僚となるにも、エリートながら亜流、第二のコースでもあった。その東大の経済学部は、役人となるには、文Ⅰに、経済や経営の研究に関しては、一橋、ときに、大阪大学に後塵を拝してきたともいう。この実態は、『ニッポンの経済学部』〔中公ラクレ〕~「名物教授」と「サラリーマン予備軍」の実力~(橘紀俊詔)を読むと、東大の経済学部が、如何に、研究機関としては、マルククス経済学の総本山として、実学よりも“イデオロギー”に軸足を置いていた学部であったことがわかる。
 しかし、今や、文系東大生の就職活動における人気企業は、“霞が関”ではない。また、大手の都市銀行でもない。この二つは、昭和から平成にかけて、東大法学部の独占市場でもあった。官僚は、令和の時代、『ブラック霞が関』〔新潮新書〕(千正康裕)を読むまでもなく、ブラック職場として、嫌厭され、銀行業界も、デジタル化社会で、ドラマ『集団左遷』〔TBS〕を観るまでもなく、斜陽産業化して忌避されてもいる。それに対して、現在、東大文系の人気企業は、経営コンサルタント系である。マッキンゼー、ボストン、ペイン&㏇の御三家が憧れでもあり、一部、何故か、伊藤忠などの商社がそこに食い込む傾向がある。まさしく、この実態より、経営コンサルの近道は、やはり、利敏い、将来への嗅覚の鋭い灘や開成といった秀才高校生には、文Ⅰより、文Ⅱが輝いて、魅力的にも見えているのは当然である。
余談だが、今注目の経済学者にして実業家の成田悠輔氏などは、麻布高校から文Ⅱ(経済学部)に進学した。現在弱冠36歳にしての、この18前の進路は、すでにといったらこじつけとも感じられようが、令和の東大生の20年ほど先取りしていたことになる。恐らく日本中の、超エリート高校生は、この成田氏、また、落合陽一氏を自身の、進路の将来像のチャートの一つをして考えてもいるのは想像に難くない。この両者、学者(研究者)でもあり、実業家でもあるという、大谷翔平を持ち出すまでもなく、“二刀流”なのである。

 ところで、である、この文Ⅱが、偏差値(高校生人気度)で文Ⅰを追い抜にたかにみえる現実が、この『文学部の逆襲』を読むと、これから近い将来、文科三類(文学部)が、文Ⅱを追い抜くという予測すらたつ様が現実味を増してくる。事実、この新書を読みおえて、そういう読後感に浸っていたとき、深夜、たまたま茂木健一郎のYouTubeを目にした。相手は、彼の親友波頭亮であった。その対談とも雑談ともいえるやりとの中で、「今年は、東大の文Ⅱが偏差値で、文Ⅰより上にきたみたいね、でも、将来は、もしかしたら、文Ⅲが一番難しい学部になるんじゃないかな、文Ⅲが文Ⅱを凌ぐ日も近いと思うよ」と述べていたではないか!
 これは、人文知という、リベラルアーツともいえる、教養が、特に、文学、芸術、美学、哲学といった科目が、AI社会で、威力を発揮するとも言われている、昨今の社会的実相は、日本中の大学で、教養とかリベラルアーツといった言葉を冠した学部が増えている実態からもうかがわれる。それは、秋田国際教養大学や国際基督教大学(ICU)の評価の上昇にも見て取れる。こうした現象は、当然の帰結とでもいえそうである。特にアメリカの大学の学部(4年間)では、一般教養(リベラルアーツ)しか教えない。その経済や法律などの専門分野は大学院で行うのが通例である。昭和から平成の初めにかけてのことだが、慶應の経済や一橋の経済でも、その大学院に入ってくるのは、上智大学、東京外語大学、ICUといった、語学を専門とし、プラスαで、濃淡はあるものの一定度のリベラルアーツを身に付けてきた者が多かったのが、院進学の隠れた慣習であった。大学の4年間、経済をやり、そのまま大学院に進む者もいたにはいたが、やはり、語学を極め、独自でその筋の専門書を読み、我流で経済の本を読み、研究者を目指し、院の門を叩いたものであった。余談にはなるが、慶応大学の仏文科や英文科の教授の経歴を見ると、不思議と、それとは、逆ルートでもある面白い傾向に気づかされてものである。経済学部から、仏文や英文の修士課程に進んだ教授が、意外にも多いことに二十代の私は、不思議な感興をそそられたものだ。
 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『武器になる哲学』『自由になるための技術 リベラルアーツ』で今や、令和の知のオピニオンリーダー的存在になりつつある山口周氏の言説も、このAI社会、デジタル社会における、人文知の存在意義、芸術の効用、アートの時代的役割など、滔々と認知されている風潮から、波頭氏の予言、「文Ⅲが文Ⅱや文Ⅰを難易度で追い抜く日が近い!」は現実味を帯びてくる。
 実際、私の教え子で、文Ⅰに進みながらも、法学部ではなく、教養学部に進んだS君がいる。その彼は、外務省のキャリア官僚ともなった。彼曰く、今では、内進で一番人気があるのは、教養学部だという。成績が良くないと、教養学部へは進めない、この駒場内部の現象が、灘・開成・筑駒内部でも、どうも起こっているようである。
 
 『ニッポンの経済学部』を読むと、日本の経済学部の実態というもの、曖昧な存在が、面白いように、氷解し、水の如く飲み込め、溜飲が下がる。
 
 世の大学の予備軍、将来に利敏い、秀才高校生は、わかってもいるのであろう。東大の法学部に進んでも、弁護士になれる保証もなし、かといって、霞が関の官僚となっても、昭和の時代と違い、天下りという甘い汁を吸えるでもなし、ブラック職場の安月給で雑巾のように使いッ走りさせられる人生も明白だ、これなら、文Ⅰに進む意味なし。経済学部に進んでも、理系の数学の猛者が天下を取る,GAFAが牛耳る世の中で、ミクロ経済学だの、マクロ経済学だの現実に応用の利かない学問など学んでも、どう、令和の時代生き残っていけるのだろうかといった進路への懐疑の念、これが、おそらく、文Ⅱの人気に陰りを与えもするだろう。そこで、文Ⅲという、人文知を学べる学部の急上昇の第二ステージの登場である。
 もともと、自然科学(工学・理学・医学・薬学)、社会科学(法律学・政治学・経済学・経営学)、人文科学(文学・哲学・美学・語学)のなかで、従来から、一番役に立たないジャンル、それが、哲学・文学・美学を生業ともする人文科学であった。自然科学は、文明のアクセルで、世界・社会を発展させるエンジンで、その立ち位置は揺るぎがない。自由主義国家であれ、共産主義国家であれ、独裁国家であれ、重宝され、“王様的存在”である。自然科学の公用語は数学である。人文科学の公用語は英語に代表される(自然)言語である。社会科学の公用語は、その中間、特に経済学部では、数学と英語が両天秤の如く求められもする。近年、数学、『統計学が最強の学問である』〔ダイヤモンド社〕(西内啓)を持ち出すまでもなく、特に統計学が重要視され、また、データサイエンス学科なるものが、リベラルアーツ以上に光が当たっているのは、英語以上に数学重視の傾向のあらわれでもあろう。データサインティストなる肩書が、その威光が、近い将来、語学の達人、ユーチューバー、弁護士、公認会計士以上に、社会、会社、個人においてまぶしいものとなることは想像に難くない。
 自然科学という役に立つ色彩は、白である。一方、人文科学は、その色彩は、黒である。つまり、哲学・文学・美学など、社会発展、人類進歩にとっては何の役にも立たないとみなされてきた。社会科学は、法律や経済など、社会システムを背景にすれば、その色彩は、その中間色でもある灰色と言えるだろう。“文学部の逆襲”とは、コムデギャルソンやヨウジヤマモトのファッションではないが、“黒の衝撃”として襲来する黎明期にきてもいる。
 
 ここで、文学部の再登場、再浮上である。以下の文言は、『文学部の逆襲』(ちくま新書)の裏表紙に記された、題名の本義を集約したコメントの一文である。
 
 近代社会を形作ってきた資本主義と民主主義は、もはや我々に豊かさも希望も与えてくれない。これらを刷新し、AIが開く新しい時代を迎えようとする今、社会はどのように構築され、人はどのように幸せな人生を生きるのか。その答えとなる「大きな物語」こそが、世の中を新しい時代に向けて動かし始める。今こそ、哲学や美学、歴史や芸術といった人文の知性が時代を進める、栄えある役割を担う時代である。文学部の逆襲を期待する。
 
 
※「おじいちゃん!僕さ、おじいちゃんが行った文Ⅲに行きたかったけど、無理だから、仕方く、文Ⅰにしたよ、法律なんって興味ないんだけど…」
 このような祖父と孫とのやり取りが交わされる時代も、あと10年前後でやってくるのではないだろうか?(笑)

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