コラム

子供らしさは、社会性を突っぱねる天の羽衣

 不登校、引きこもり、いじめなどで、学校から疎遠となる少年少女というものが、実は、意識と無意識の閾に、社会性というくびきが浮かんだり沈んだりして、自己を追い込んでいることが、最大公約数的に、その理由となっているような気がする。つまりは、子ども時代の子どもらしさという、“平和的集団生活ボイコット”の武器を失ってしまっているようでならない。
 
 「いじめなら、逃げよ」「ひきこもる者は、ひきこもれ」「不登校者は、学校なんて行かなくていい」こうした心の処方箋を提示する教育者や著名人は多い。ほぼ、まっとう論である。しかし、当事者たちは、この行為ができないのである。中途半端の社会性、そして、中途半端な自我、これらが冷静な行為へと駆り立てることができない。有意義で、生産的で、前向きな、次への一歩が踏み出せず、優柔不断に、ただ時を無為に過ごしてゆくのみで、メンタルの夜明けが、反永久的に来ない立場に追いやられもする。すこやかなる、ほがらかな幼稚性・子供っぽさ、理不尽なる社会性をものともしないやんちゃ精神が、欠落しているか、放棄してしまっているのか、忘却の彼方へ消滅してしまっているか、子供特有の野生的楽観主義ともいえるような、「失うものなど、何もない、何とかなるだろう!」とも言える単細胞的前向きさといったものが、彼らにはないのである。ある意味、大人の目線ともいえる放射能が、自身のメンタルを覆ってもいる。
 
 その学校、組織、集団といったものに不適合、敵対的関係にすらなった時、その精神の板挟みといった立ち位置から逃れる、解放される、いや、仮面を被りその状況を生き抜く術とは、月並みだが、楽観主義でもある。「なんとかなるさ、これでいいのだ、Let it be」などの言葉が、台風、豪雨などをじっと過ぎてゆくのを前向きに待つ姿勢とも重なってくる。 
 この楽観主義とは、「未来がある、将来がある、Tomorrow is another day.」とも考える心的態度でもある。実は、この楽観主義の、種とは、子どもらしさ、少年性、やんちゃ魂、いたずらっこ気質、わんぱく精神、これらに淵源があると私は、半生を顧みて、経験上、ある確信を持っている。これらの気質には、一般論的、暗さがまとわりついていない。明るい気質、それは、子どもの生来有している、強味であり、生きる上での、武器でもある。飛躍しても聞こえるが、フランスの思想家アランの言葉ではないが、「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」という真実が、私の文脈でも適用できるというものである。
 
 東日本大震災の際、大人よりも子供へのこれからの悪しきメンタルへの影響、心のケアが大切だと述べた有名人が多かった。しかし、それは私に言わせば逆である。それはひ弱なる子供への対処のことであろう。学校における優等生的子ども、子どもの武器ともなる、すこやかなる“わんぱくさ”を失ってしまっている子どもへのコメントである。私に言わせれば、財産や家庭など何も失うものがない子どもには、この陰・悪・苦を跳ね返すバネともいえる強靭なるやんちゃ魂、これすらあれば、余生70以上生きてゆけるのである。むしろ(すこ)やかなる子供には、こうした心配は無用なのである。だから男児に命名する漢字、それは“(けん)(健やかさ)”というものが多い所以でもある。その願いが我が子に込められてもいる。健ちゃん、健坊などよく耳にする男子は、わんぱく性がコノテーションでつきまとう。
 
 山下達郎のアルバムに『僕の中の少年』という名のアルバムがある。意味深である。また、その次のアルバム『アルチザン』の中の第一曲目に、「アトムの子」という名曲がある。その出だしの歌詞である。
 
  ♪どんなに 大人になっても
  僕らは アトムの子供さ
  どんなに 大人になっても
  心は 夢見る子供さ♪
 
 子どもらしさ、みずみずしい感性、こういった幼児期独特の感受性は、何も、文学や音楽の世界だけであれこれ、重宝されるものではない。子どもらしさというものは、大人になっても、見えない、理不尽で、圧迫的社会性、束縛を伴う企業社会、学校における息苦しい友人関係でもいい、そうしたものから<精神を守護する鎧>でもある。そうした力を跳ね返す躍動の生の泉、いわば、“子供らしさという天の羽衣”を失ってはいけないのである。
 

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