コラム

Z世代×共通テスト=令和の教育崩壊!?

 今や、世の中で耳にしないZ世代という種族、そしてポストZ世代に関して、あれこれ言う筋合いもないし、その権利も当然ない立場から、その世代をあれこれと分析し、解析し、市場、経済に影響を与えんとする言説、つまり、彼らに忖度するその親世代に一言いいたい。

 特に、教育の観点からである。

 初等教育において、学級崩壊、能力別指導、学習障害など、様々な観点から、従来の教育方針(オールドタイプ)を改めよう、改善しよう、改革しなければといった、こういうモットーかは存ぜぬが、そうした小学校レベルの問題点を、錦の御旗として、認知能力から、非認知能力への教育スタンスのパワーシフトが是とする風潮(ニュータイプ?)がどうも気にかかる。

 中等教育においても、それが言える。金融教育{株のトレードや将来を見据えた貯蓄のノウハウ、ちょっとした企業を始めるいろはなど}、歴史総合、そして、プログラミング(※中学でも)、さらには、“文法軽視の使える英語”(※中学でも)への面舵いっぱい的転換など、例を挙げればきりがない。

 大学共通入学テストの問題の質も同様である。特に、数学と英語が何かちゃんぽんした、“融合科目”(数学も英語も国語力がベースとなる奇妙奇天烈な科目)という、一種ジャンルも越境している感が否めない。これからは、日本史と世界の融合問題、さらには、地政学という概念をも取り入れて、地理すらも加味し、将来的には、教養社会という科目すら出現しかねない勢いが、高校の現場で目に余る。高校生には、地政学を教えようという意見が、総合歴史の次ぎの科目としてにちらほら見えてもくる。
 
 こうした、今般の初等中等教育を概観した時、非常に、気になる点を指摘しておこう。それは、学問の越境、総合知、有機的知の体系を、年端も行かぬ、“発展途上”の少年少女に教え込もうとする誤った方向性である。この傾向は、実証例として、非進学校・準進学校・就職率の高い普通科高校に関して顕著なものである。
高等教育の段階では、人格というものがそこそこ形成された“経済成長が終焉した”人間に施すには、絶対是である。しかし、知的体系の根幹ともなる、知識というものが不完全なるがままに、教養ともいえる、総合知・全体知を教えこむことなど、できましょうや?
 常用漢字もろくすっぽ書けない高校生に、小論文や高度な現代文を指導することなどできましょうや?小学生から中学生にかけての義務教育レベルの公民的知識が欠落している高校生に、アクティブラーニング(政治経済社会問題)を教えることは、中学生レベルの英文法も知らずに、高校生の英語のテキストを読んだり、自由作文させるようなものである。その国の位置、ヨーロパの大国の歴史や東南アジア諸国の社会情勢、これらを知らずして、総合歴史を学ぶという非リアル、世界史Aレベルを知らずして、また、日本史Aレベルを知らずして、世界史と日本史の融合でもある総合歴史を教えて、それが一体何になるというのか?ここで、はっきり言わせてもらうが、初等・中等教育の本義とは、生温い、中途半端なゼネラリストを育てることではない、小さい、熱いスペシャリストを育成することであると。
 スペシャリストとは、育てるもの、育成するものである。一方、ゼネラリストとは、育つもの、成長してゆくものである。この、ホモサピエンスにける、学びの本義を、どうも、経済に毒された、政治にかぶれた世の知識人はお門違いをどうもしている感が否めない。研究医と臨床医・看護師との現場の実態の把握力の齟齬ある。これこそ、政財界と自民党の、日本経済の停滞・失われた30年を、教育の改革にありとしてきた誤判の何物でもない。

 「適応」を専らとするのは、「進歩なき進化」である(西部邁)

 この真理がわかるか否か、それが真の知識人・教養人の証でもある。
 今般、東京都で実施されるスピーキングテストを導入した輩は、まさに、非教育者の烙印を押してもいい連中である。自民党の東京議連や教育委員会は、使える・実用的という幻想にとらわれた、経済界・ベネッセの犬ともいってもいい。

 大学の存在意義とは、ある意味、不完全なるスペシャリストを完全なるスペシャリストに精錬するところではない。むしろ、小さなスペシャリストが自己の内面に、複数いる自我を、連結させて、大きな、使えるゼネラリストに育て上げることに尽きると思われる。この本義が、教養というリベラルアーツでもある。

 近年、高大接続などと文科省に標榜されている理念は、高等教育が機能不全、大学が教養というもの忘却した証左の何物でもない。“大学はもう死んでいる”ではないが、その大学の役割を中等教育に放り投げている、その証が、センター試験から共通テストへの改革に、そのテスト問題の質に如実に表れてもいる。

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