コラム

歴史教科書から用語を半減を!

 暗記というものを考えていると次のニュースが報じられたことを思い出しました。2017年11月14日の朝日新聞の記事です。高校の授業が暗記中心になっている{※これこそ悪い暗記の何ものでもない!下手な教師の授業である!}のは問題だとして、高大連携歴史教育委員会が用語の精選案を出して、歴史の教科書から、次のような人名や事件を削除するといったものです。見出しは、次のようなものです。

 

        脱暗記へ「用語半減を」執筆者ら提言

 

 日本史だと、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰、坂本龍馬、不輸・不入の権、桶狭間の戦い、旅順占領……などが削減対象

 

 世界史だと、クレオパトラ、ガリレオ、マリー・アントワネット、ロベスピエール、カノッサの屈辱、プラッシーの戦い、ワーテルローの戦い……などが削減対象

 

 つまり、歴史教科書に記載されている3500程度から約半分にするという案です。

 この案に対して、ご父兄はどう思うでしょうか。

 

 現代は、ネット社会で、グーグルなどすぐ検索すればわかるものをわざわざ暗記などしなくてもいい論が根強くあります。知識量より思考力優先の社会になりつつあります。この委員会なるものは、詰め込み、暗記主義を否定し、もうカビが生え、言い古された言葉、知識ではなく考える力を主張したいらしい。現場の教師は、小学校、中学校、そして、高校にかけて、歴史や地理など、その最低限度すら知らない生徒が異常に増えている実態を知っているはずです。「その低レベルに基準を合わせた教科書を!」と叫んでいるかのようであります。かの委員会の大義名分として、知識の量の多さに、歴史嫌いを増やしかねない原因があり、それこそが諸悪の根源だとも主張しているように見えます。

 それに対して、世の中は、テレビ番組で、“東大王”だの、“高学歴タレントが登場するクイズ番組”がやたら目に付く時代です。異常なほどの、雑学・知識を引けらかす、クイズ番組が隆盛を極めている現象をどう読み解くのでしょうか?学校という教育機関が、学習、知識を学ぶ場ではない、何か、学校以外で、塾・予備校をも含め、知的渇望があるという証の表れ意外の何ものでもないでしょう。勿論、こうしたテレビ番組を一切観ない家庭や高校生も増え続け、一種、知識層の二極化が進んでいるのかもしれません。

 医師の国家試験は、昔より難化しているとも言われています。それは、医療の技術の進歩や薬品の開発などで、暗記すべき量が、莫大に増えていることが原因であるそうです。弁護士の司法試験も同様でしょう。範例集の暗記や、時代の変化で法解釈が、猫の目のように変わる時代のなか弁護士を夢みる学生の暗記度は、昔の比ではなくなってきています。

 日本史を例にとると、小学生が中学受験をする知識と、中学生が高校受験をする知識、そして高校生が大学受験をする知識、レベルがそれぞれ違います。中学受験で、応仁の乱や関ヶ原の戦いは、出題されても、高校受験では、当然出ません。高校受験で、前九年の役・後三年の役や承平・天慶の乱が出題されても、大学受験では、あるレベル以上の大学では、出題されません。大学受験で定番のシーメンス事件や虎ノ門事件は、標準以下の中学・高校受験では出題されません。こらは、何を意味するのか。知識というものが、段階をへて、基礎、中級、そして、高度なものへと連綿と繋がっているからです。ですから、小学校、中学校で、歴史をさぼってきた、ある意味、吉田松陰や坂本龍馬すら知らない高校生に対しても、当然、必須の人物ということを自覚させる意味でも、高校の教科書には、中等教育で必須(基礎・中級)とされるものは、記載しなければならないのです。

 極論ですが、英語を例にとりましょう。高校の英単語数が多すぎる、だから、中学生レベルの英単語を用いずに英語教科書を作成せよというお達しが、文科省から出されたら、それは、愚策に等しいものなのです。高校生の英語の教科書には、当然、中学生レベルの英単語を踏み台に高校生レベルの単語を用いて、英文を書いているはずです。日本史とて同じことです。この高大接続歴史教育委員会なるものは、あまりに細かい知識、多すぎる用語が、歴史離れの原因として、半減すべしとする精選案を出したようですが、これも、英語の負け組の声を斟酌し、使える英語へと舵をきったのと、同じ病根が透けて見えてきます。使えない英語とは、そもそも教科書に原因があるわけでもなく、教師自身にあるわけでもない。半分以上の理由は、生徒自身の英語のやる気と、その学ぶ意欲に応える学校のシステムに問題があるのです。歴史の用語の数を減らせば減らすほど、学校の教科書の信用・権威は、さらに落ち、塾・予備校のテキストや書店の参考書の人気はさらに高まりましょう。教科書の一種、“白痴化”です。歴史の丸暗記では手も足も出ない、東大の二次の論述形式の問題は、やはり、歴史のディティールを知っていなければ、全く手も足もでません。当用漢字を500個、1000個、1500個知っているかで、作文・小論文の完成度に開きがでるように、言葉の豊富さというものが、その生徒の文章力・思考力を緻密にしてもいるのです。細かい、真の知識というもが、その歴史上の因果関係の中でどういう意味合いをもっているか否かの意識のある生徒とない生徒の違いをこの委員会の連中は分かっているのでしょうか。生徒への負担の多い少ない、歴史への興味関心が薄れるとか嫌いになるとか、教科書を、‘できない生徒’に基準をおくという、歴史知識ゆとり主義へとかじを切ろうとする愚策に、「またか!」とほとほとあきれるくらいです。文科省の第三者委員会的な存在が、国民を‘白痴化’しようとする、社会・学校・生徒の現代の連鎖性・関連性に気づいていない‘余計なお世話案’でもあります。

 そんなに、減らしたいのなら、いっそ、日本史を、江戸以降のものに限定して教え、古代・中世を選択にしたらよろしかろうとおもうのです。実際、慶應の商学部や東京外語大の二次の日本史の問題は、江戸以降、江戸末期以降と出題を制約しているところすらあるのです。日本史Aとか日本史Bとかで括るのではなく、古代・中世専攻日本史と近世・現代専攻日本史を分ければ、いいだけの話しです。まるで体育の授業で、バスケもバレーも体操もすべて中途半端にやってモノにならないよりは、専門性優先で、教科書を以上の2タイプに分けるとかの方針がないものかと思うのです。実際、縄文・弥生、飛鳥、奈良と江戸時代の途中で高3の受験に突入、近現代史は自力、また、予備校の助けを借りなければならない事例は余りに有名な話しです。

 生徒自身が、英和辞典を、国語辞典を、歴史用語集を、それぞれ選ぶ段となった場合、その選ぶ基準は、その英単語、日本語の言葉、歴史上の人物や事件などの詳しさ、豊富さにあることは、出版社の“売れる・売れないの編集基準”と同じものがありましょう。教科書という存在の権威・信用の失墜は、20年近く前、ゆとり教育時代の教科書がスケスケのカラカラ状態で、笑いの的ともなったのと同じ愚策を、この高大接続歴史教育委員会なるものが行おうとしているのです。現代のメディア、市販の書籍、学校の歴史のカリキュラムなどを大局的な観点から見えない、これも、暗記というものが、IT社会、SNS社会、AI社会に推移すればするほど、真の暗記というものの必要性に気づいていない、節穴の目しか持たない‘暗記’エリート集団なのです。

 

これは、東京新聞の本音のコラム{2017年12月13日}という欄で、文芸評論家斉藤美奈子氏が、語っていた文章の抜粋です。

 

 「背景には大学入試の難問化があるらしい。入試に教科書の範囲外の用語が出るのは茶飯事で、暗記事項が多い日本史は効率が悪く、高校生の歴史離れが進んでいると。だとしたら用語を減らしたくらいで、入試自体は変わらない。大学の側を問題にしない限り、歴史の暗記偏重脱却は難しいんじゃない?」


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