コラム

歴史総合という科目の正体

 前回、高校1年生に歴史総合の授業を行う難しさ、また、愚かしさ(?)という観点で論を終えましたが、この歴史総合という教科は、ある意味で、アクティブラーニングとコンセプトにおいて通底しているものがあります。この理想とされるアクティブラーニングなるものが、中学生であれ、高校生であれ、極論ながら、進学校の、まあ、成績上位者以上から超進学校のレベルでしか、実行不可能でもあるという点に類似しているからです。
 つまりは、歴史的基礎知識や時代の最低限度の連綿性としての理解、さらに、軽い、表面的な日本史と世界史の背景のつながりなどなどを弁えずに、「近現代を語れ、述べよ、まとめてレポートを出せ」などとは、中学で公民を、高校で現社や政経を、一切学んでこなかった大学生が、政治経済学の専門講座をいきなり受講するようなものになるからです。
 したがって、この歴史総合という科目は、縄文彌生時代からせいぜい江戸時代で終了してしまう悪しき慣習の中等教育の歴史の授業を改善したい、また、暗記詰め込み主義の歴史の勉強を放逐したい、そういった文科省の方針、いや、目論見を反映したものである。こうした政府の主旨・方針は、理解できる、また異論もありません。
 だったら、高校1年の歴史、日本史であれ、世界史であれ、近世から始めればいい。日本史ならば、江戸から始め、明治大正昭和までを高校1年間でみっちり教え込む。当然、中学3年には、前提条件として、広く浅く世界史の近世近代を教えておく。つまり、産業革命から帝国主義の19世紀、そして、戦争の世紀の20世紀までの流れを、NHKで、現在放映されている『映像の世紀 バタフライエフェクト』を活用して授業を行うなどして、歴史総合の下地を整備しておく。この仕込み、こうした18~20世紀にかけての下ごしらえをしておかなければ、真の考える日本史と世界史の融合など、夢のまた夢でもある。
 
 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)<朝日出版社>や、『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートとの対話』(佐藤優)<新潮社>などは、歴史総合、また、社会総合ともいった見地を身に付けさせようといった意図の書籍である。前者は、栄光学園の生徒たちに授業した内容であり、後者は、灘校の生徒たちとのダイアローグといった形式で編まれたものである。こうした本は、まさしく、歴史総合という教科を包含する知のフィールドにあるものである。彼ら超進学校の生徒たちは、当然、あの難しい中学受験を経て、また、学びというものの本義を無意識に身に付け、しかも、地頭のよさという天賦の資質も兼ね備えて、加藤陽子や佐藤優と議論で丁々発止できてもいる。
 
 彼らには、‘掛け算九九や小数・分数計算能力’がきちんと定着されてもいる。これが、歴史の基礎知識(人物・事件・改革・戦争など)に該当するものである。この小学校低学年でしっかりみにつけておくべき四則演算能力なくして、5年や6年で習う、図形問題(面積や体積)や文章題(通過算や旅人算の類)を明快に解くなどとは、不可能に近いことは、近現代の歴史の基礎知識なしに、いや、あやふやなままで、歴史総合という科目に向きあうのと同義であるとは、誰も指摘していない。いや、現場の歴史教科担当の教師の多くは、これに、この死角に同じ実感を持たれてもいることだろう。
 しかし、この歴史総合を、きちんと生徒に教えこむ、いわば、批判的精神で、歴史と向きあう姿勢を養うということは、皮肉なことに、政府自民党の、特に、上っ面保守の議員にとって、面白くない、意義申し立てをする未成年を多数生み出すというジレンマに陥る運命を想像できていないようだ。近現代の自虐的歴史観とまでは言うまい、一種、プチ丸山史観、プチ網野史観を有する高校3年生が、非自民党に投票するという末路を認識できていないようだ。似非保守議員が期待するものとは、真逆の学習結果となることすら考えが及ばぬようだ。それほど、バカな令和の高校生は、生まれもしない可能性も高い。というのも、無機質に、単位のために、受験のために、<仮面をかぶり>総合歴史を学ぶというのが、ノンポリ学生の気質でもあるからである。
 考える歴史を身に付けた無党派層の予備軍は、非自民の政党に投票することになる可能性が少なくないのである。これは、私個人の杞憂であるかもしれない。
 事実、加藤陽子は、学術会議委員会のメンバーに推されながら、菅政権下に、そのメンバーになれなかった学者である。佐藤優は、鈴木宗男と同じように、外務省から有罪者にさせられ、公的機関から放逐されてしまった。この両者に共通する知の枠組みを有することが、歴史総合の教科で、一番高得点を望める近道であることを、文科省の、自民党の文教族は深く認識してはいないようでもある。
 そうはならなくても、余談だが、高校1年で歴史総合の洗礼をうけた、凡庸な、標準的な、ごく普通の高校に限り、その多くは歴史嫌いの17才となることを予言してもおこう。それは、話す・聞く主体の英語、つまり、表面的な使える英語を、中高生に学ばせれば学ばせるほど、英語ができなくなるとうジレンマと似ている真実である。英語嫌いになる、読み・書きが苦手となる高校生を輩出する英語教育の負の逆説であり、皮肉でもある。一般的な教育の矛盾点と、この歴史総合という教科は共通すると指摘する教育関係者は、いない、皆無なのである。
 
 最後に、辛辣なことを指摘して、論を終えよう。ずいぶん昔のこと、現代社会という科目ができた。今では、センター試験から共通テストにかけて、理科系の高校3年生にとって一番高得点が望める、“裏道的な楽ルート”の社会科目でもあるそうだ。この現代社会なんぞは、公民・政治・経済のあっさり味のちゃんぽん科目とさえ呼んでもよろしかろうと思う。これに擬えていわせてもらうと、歴史総合なる科目は、近現代の日本史・世界史のあっさり味のちゃんぽん科目となれ果てる宿命を、危険性を背負っているのは明々白々である。
 
  余談ながら、弊塾の生徒に、歴史総合なる科目に対処するには、学習参考書・受験参考書売り場ではなく、歴史専門書コーナー、また、ビジネス書コーナー、更には、新書コーナーにこそ、その教科に打ってつけの“参考書”があると指導してもいる。それは、平成後半から、英語という教科にも同様のことが指摘できる。学校や教育界よりも、実社会のほうが、有益で、便宜性があり、知的な、真の意味で、<学際的=教養的>であることの証明でもある。「非学習参考書コーナーにこそ、君たちに為になる筆者(書籍)はいる(ある)ぞ!」と、ベタながら、月並みで、よく知られた人物は、あの池上彰氏であると口にすると、彼らも納得してくれるのである。そのついでに、茂木誠や出口治明や井沢元彦などの名前に挙げても、(愚かなのか?無知なのか?情報ツールが偏っているのか?)現場の高校生は、ネットキッズにもかかわらず、弊塾では、無名である。まさに、学びに関しては、タコツボ型の彼らでもある。
 






 

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