コラム

歴史との向き合い方

 小学校時代に、ある理科の先生に恵まれ、自然科学へ興味が湧く、その後、進学校へと進み、東大へと、更に、研究者となる。そして、その分野の権威となる。高名な学者として大成する。そのノーベル賞候補ともなった教授が、母校の小学校を訪れ、恩師の理科が得意だった先生と再会する。その教え子の教授は、恩師の知識が、自身の知性から観て、幼い、単純で、義務教育レベルのものであるからといって、決して、見下すこともない。専門的観点から、初等教育を裁断しない賢さを持ち合わせている。これが、学びの道の、分別でもあり、良識といったものである。むしろ、その子供時代に、話してくれた、やって見せてくれた、その子供の身の丈に合った、その子に見合った知識を面白く、可笑しく、プチ知的に話してくれたことに感謝こそすれ、その恩師の理科という分野の知的水準、知的分量、知的最先端度など、意識などしない、眼中にもないはずである。尋常小学校しか出ていない賢母に育てられた帝大教授の“心的関係・絆”ともいっていいかと思う。
 
 なぜこんな話をしたか?それは、歴史というものへの姿勢の持ち方と共通する<師弟間の態度>であるからだ。
 
 私たちは、幼稚園まで、母親のひざ元で、また、保母さんの周りで、昔話を口述で、絵本で、紙芝居で、その精神年齢に応じで、単純明快な物語を聞かされる、そして、人間世界という、自身が生まれる前の、すでに存在していた世界、日本という国の一側面を垣間見てゆく。これが、歴史との馴れ初めでもある。
 
 そして、小学校に進むと、ひらがなや常用漢字の習得と並行して、人それぞれ、まちまちに、歴史小説を読む、また、テレビや映画で、歴史上の人物に興味を持つ、憧れる、これが、歴史学習のステップ段階である。この段階で、歴史というものに、“フック”しないものは、そのまま、中等教育へと進む。私的一般論だが、家庭環境や個人の経験、比較的、裕福で、幸せで12才まで育った少年少女が、このタイプに多い。
 
 中学に入ると、教科としての歴史が、本格的に始まる。受験や点数というものを意識せざるをえない段階に入る。特に、中学は、広く浅く、日本史や世界史を習うが、これまで、習ってきた歴史の実態とは、娯楽としての歴史と大きく違うこと、また、些末な、無機質な知識を覚え、ちょっとした歴史的事象の因果関係や人物同士の葛藤・駆け引きなどが意識されてもくる。資料集なども交えて、歴史を、時空を超えたフィールドワークとして勉強せざるをえない学習環境に突入してゆく。大人の世界の趣味と仕事との関係に比例するかのように、フィクションとノンフィクションというものを峻別して、歴史を学ぶ態度を強いられるようにもなる。ここで、思春期までの、歴史への興味が、面白さが忘れられない高校生は、ある意味、割り切って、歴史を学んでゆくものである。ちょうど、大人の世界には、建前と本音があることに気づいてゆく精神的成長に似て非ではない。歴史に関して、態度が大人になった証でもある。池田理代子の『ベルサイユのばら』の愛読者である女子高生が、横山光輝の『三国志』のファンでもある男子高校生が、世界史で高得点を取る、得意科目とする例である。
 そうした、高校生が、その後、大学の文学部に進み、史学科の研究者となる。一種、科学としての、実証主義の、学問としての歴史研究の道に踏み込み、歴史学者となる。この歴史学者は、幼児期の、子供時代の、いわば、小学校までの、物語としての、人間模様としてのストーリー性が、自身を、歴史の入り口へと招待してくれた事実・恩義を忘れない。その歴史の先生、歴史の教材といったものを、決して軽んじたりは、しない、むしろ厚い感謝の念すら有しているものである。よく、人生を決めた一冊などと有名人が大切にしている、あのボロボロの本など、その見本のようなものである。ノーベル化学賞受賞者吉野彰氏における『ロウソクの科学』(ファラデー)のような本とも言える。
 これは、丁度、自然研究で、野山を走り回り、昆虫や動物を間近に観察したり、様々な理科の実験(米村でんじろう先生の実験など)を体験し、科学者の道を決意した少年などと同じ精神的ルートといってもいいものである。
 
 子供時代の、歴史小説や歴史マンガは、ちょうど、有能な理科の先生が、自然観察や物質の実験を、生徒にやってみせて、更にさせて、その生物や化学への扉を開く役割と同じものである。半分以上作り物だからといって、娯楽としての歴史をバカにしてはいけない本義がここにある。小学校の先生が、年端もいかぬ子供たちに、面白い学問の世界へと導いてくれた恩義というものを、ノーベル賞候補者の物理学者や化学研究者が、軽視しない、見下しもしない姿勢、それは、歴史学者が、歴史愛好家が、歴史を嗜む社会人が、子供のころ、胸躍らせ、憧れもした歴史上の人物と実際のその人物とを冷静客観的にわけて認識するのは、大人になっても、自身の親の長所欠点など見えてきても、それを受け入れる心的寛容さ、‘学びの孝’的態度と同じものであり、親友への愛情とも似たものがある。つまり、真の友情とは、その友人の長所や欠点を超越した、その向こう側にある、その人の、自身が心を許せる人格にまで到達している、温かい眼差しなのである、それに似たものがある。歴史、それは、日本史であれ、世界史であれ、その国の歴史を学ぶということは、長所や短所、自身には気に入らない色々ある父母を、友人を識り、そして愛する行為と同類のものなのである。歴史を学ぶとは、不完全なる“生きもの”を理解し、そして、ともに生きる伴侶、そして生きる糧とする行為であることを忘れてはいけない。
 
 余談ながら、小説としての歴史書とは、恋愛のようなものである。史書としての歴史書とは、結婚(夫婦生活)のようなものでもある。両者の欠点・長所がリアルに見えてきても、そこから、良い悪いも全て受け入れ、人生を歩んでゆく中で味わう、こみ上げてもくる充実感・幸福感、そうした認識の深まりこそが、歴史を識る真髄であり、醍醐味でもある。荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候なり」の真意は、ある意味、この観点にもあると言えようか?

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