コラム

リスキリング私見➁

 みずほ銀行の度々のシステム障害は、とみに有名である。第一勧業銀行、日本興業銀行、富士銀行が合併したが、それぞれのコンピュータシステムがかみ合わない、不適応、エラー尽くしなどが原因であろう。このように、コンピュータ間でさえ、意志の疎通、機能の融合、プログラミングの接続などなどがうまくいっていない実例が、現にある。<デジタル>でさえ“性格の不一致”があるということの見本である。
 
 では、人間はどうであろうか、人類の歴史を紐解けば、それは、宗教間の衝突、国家間の戦争、民族間の紛争など、心というか、精神ともいおうか、ホモサピエンスは分かり合えない生き物でありながら、それに抗うかのようにもがき苦しみ、事実もがいてもきた、否定してきた、そして和解・親善を目指そうと必死に奮闘努力してきた<物語=History>が実在することがわかる。理性と本能とがない交ぜになった<アナログ>という存在が、一種、そうした宿命を背負っていると達観しながらも、それに抗ってもきた。ウクライナ情勢が、この<アナログ>という存在間の分かりあえなさの証左でもある。プーチンとゼレンスキーとのやり合いが、不思議な生物の素性をものの見事に、描き切ってもいる。<アナログ>という存在には当然ながら、“思想信条や感情の不一致”があることの典型である。
 
 では、この<アナログの王者>人間と<デジタルの申し子>コンピュータが、そうやすやすと、様々な側面で、“和解・融合・統合・併存”してゆくことなどありえようか?あり得るとすれば、それは、人間がコンピュータに合わせる、適応しているに過ぎにない。CHATGptを上司とするか、部下とするか、それは真のアナログ度が試金石ともなろう。
 それは、まだ未成熟の赤ん坊や幼児に、その感情むき出しの、本能があるがままに成長してゆく我が子に、自身を犠牲にしている母親のようなものだ。自身の生活のリズムを、スタイルを、将来の目標を、我が子に合わせなくてはならない、微調整してゆかねばならないジレンマと同じ窮屈さが、このコンピュータに対処する際に求められる感慨である。<アナログ>を抹殺し、<デジタル>を受け入れる、この心的維新というものが肝要となる。これが嫌な夫婦は、子供を持たなければいい、また、そうした精神的不如意が、家族愛などに裏付けられた幸福感として受け入れられる我慢強い夫婦は、子供をもつ覚悟もできている。
 
 実は、アナログ人間がデジタル人間に、ある意味で、脱皮するには、自身の<ノマド的精神>、<自身の精神の維新>が必須となることを弁えていなくてはならないのである。古い衣を脱ぎ捨てる覚悟である。それは、狩猟民族・騎馬民族の遺伝子が根底にあるものかもしれない。NHKの転勤寛容族や引っ越しを苦としない商社マン気質の者は、リスキリング向きかもしれない。自身の、個人の、そうした我執、アナログ居士でいたい欲求を謳歌したいのなら、つまり、リスキリングが、心理的、生理的、嫌で嫌でしょうがないいといった拒否感を抱いてしまう人間は、コンピュータという我が子を持たなければいいだけの話である。
 
 ここで、何がいいたいのかと問われもしょう。それは、リスキリングなるものが、自身の生活の上昇、賃金の増加、それと結びつき、それが、生活の物質的豊かさと結びつき、畢竟、幸福感として湧きあがる人間こそ、リスキリングを行えばいいだけの話だ、と、私は主張したいわけでもある。
 
 リスキリングをして、仕事で、スッテプアップした、物質的な意味(特に賃金の上昇)で、それに付随して精神的な面でも、仕事上の充実感、幸福感を味わえるなら、それに越したことはない。そうした部族には、意義を申したてたてるつもりはない。リスキリングをして、物質的な意味で豊かになりはしたものの、心の幸福度、仕事をしていく上での充実感、満足感が薄れたりしたならば、それは、生きがいのステップダウンと言わねばならない。この点を、肝に銘じて、スキルの学び直しをすることに警鐘を鳴らす者はいない。
 
 どういう尺度による幸福度を求めてかは知らないが、身の丈を忘れて、背伸びまでして、タワーマンションを購入し、そこに住む、プチエリートサラリーマンに限り、リスキリングの脅迫観念に取りつかれるものである。埼玉や茨城の高卒の、地方のマイルドヤンキーに限り、リスキリングの“リ”の字も知らなくても、アナログの仕事に従事し、家族第一主義、趣味第二、仕事第三の彼らでも、幸福度は、タワマン族より断然高いのである。

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