コラム

共通テストなんてクソだと思え!

 今週末、いよいよ第4回の大学入学共通テストが始まる。これから述べることは、このコラム、また弊著『反デジタル考』でも触れていることだが、もう少し意見を加味して語ってもみよう。

 まず、この共通テストというものは国家事業的入学試験の最終段階のものともいえようか。昭和に始まった共通一次試験が、ホップだとすれば、平成に改変されたセンター試験が、ステップ、そして、令和の共通テストがジャンプともいえる、一種<国民的行事>ともいえる。 今や、権威ともなれ果てた試験になってしまった感が否めない。

 そもそも、共通一次試験は、国公立の二次試験のための、予備試験、基礎知識を試すレベルのものであった。最低限度の英数国理社の基礎知識があって欲しいという意味での、ある意味好意的、第一関門でもあった。但し、5教科7科目の1000点満点という一般教養のいろはの“い”的試験とも言えた。
 それが、平成に入るや、何故かしらセンター試験という屋号に変えた。科目数も減らされる。私の印象だが、問題量が増えた、そして、少々問題が難化したように思われる。つまり、時間との闘いが加味された性質を帯びてきたとも言える。その点で、共通一次と比較して、このセンター試験は、一般私大の問題に近づいてもきたとも言えようか。それが、平成半ば、それも英語に限定して言わせてもらえば、リスニング問題も50点導入される頃から、問題の質は、私大的、また、英検の2級レベルの聞き取り能力も加わった。また、そのセンター試験の、従来の基礎力を試す試験から、私大参加型になった平成後半あたりから、良問ともいえる、また、標準的能力{地方のナンバー校に準ずる県立高校生の学力}の高校3年生で、学校の検定教科書レベルの学力では、7割を割るレベルの問題へと変質する。ここに、英語のセンター試験は、英語の基礎力ではなく、点数が取りにくい、特に、80分では、満足のいく解答が得られない問題へと、スピード感を必要とする問題へと変貌を遂げたといってもいい。これは、共通一次と比較して、問題の質の難化度以上に、問題量・英文量の多さが特徴的とも言える傾向である。つまり、時間との闘いが加味されたとも言える。問題の難化は、文科省、受験業界などが口うるさく非難・批判する声を忖度して、難問にはできない。そこで、英語に関していえば、問題量と英文量の大さで、7割ゾーンを越えない、英文読解では、力はあるものの、遅読の生徒には、いやらしい問題ともなれ下がった。この特徴が、平成後半からさらに顕著になる。これは、“情報処理能力を身に付けなさいよ!”というメッセージに等しい問題であり、図や表を駆使した問題からも、従来の英文速読能力といったものでは到底ないことが判明する。ここで、英検問題の枠からも大いに逸脱してゆく。センター試験前期は、少々英検問題を考慮しての作成であったものが、後期ともなると、私大志望者を取り込んだ問題でもある手前上、大学入試センター本部の面子もあるだろう、如何に、点数を取らせないか、標準値が、6割前後となる、マークシート型でありながら、なかなか思うように点数がとれない‘悪意の問題~これをどうとらえるかは標準値の生徒かハイレベルの生徒か、その基準による!~’になれ下がるのである。特に、国語の問題など、私大志望者対象として、現代文だけ受験生徒(短大系女子大)、現代文と古文だけ受験生徒(中堅私大)、という切り貼りのような問題へも変質する。特に、現代文だけ利用生徒(女子大志望者に多い)は、小説と評論の2題だけで80分を使えるバカげた国語問題ともなってしまい、一般国公立志望の現代文2題と古文と漢文の合計4題を80分で解く生徒とは大きなハンディともなる、奇妙奇天烈な問題でもあることは、誰も声を大にして批判しようとはしない。小説一題40分、評論一題40分、こうした私大出願型の受験生と、国公立志望の4種類を受けなくてはならない受験生とでは、現代文の出来不出来が大いに違ってくる実態を誰も指摘しようとはしない、不思議である!

 さて、令和に入って、そのセンター試験が、大学入学共通テストとなった。この共通テストは、本コラムでも指摘したのだが、何度も美容整形した、不自然に綺麗な、人工的な整形美人の女性ともなった問題ともいえる。それは、様々な問題形式や理想を追い求めた果ての鵺(ヌエ)的、異様な問題ともなったと言っていい。この共通テストを、皆、美人だと思わせる集団圧力が、現場高校から受験業界にまで蔓延しているこの問題が権威であり、この問題で高得点を得なければ、権威(?)でもある国公立に進む可能性が狭まるという強迫観念が、更に、この国家行事の試験を、権威化する、悪のスパイラル現象を招いてもいる。
 センター試験の後半から分量が激増し、表や図など駆使して、本来の英語力というより、謎解き、クイズ的、あは!的問題へ変質してもきた。それは、問題そのものの難化には限界があるため、それ以外で難しくしようとする魂胆が透けても見えてくる。

 この共通テスト、特に、数学にその特徴が、顕著に表れている。問題の冊子のページ数が、2倍弱ともなった。この数学というジャンルに読解力を加えて、その国語力が前提ともなって、問題文を読み通す能力がなければ、数学問題そのものにたどり着けない不思議な問題へと変貌した。これは、国語が苦手、遅読の、数学準秀才には、有難迷惑な問題である。数学そのもの能力ではなく、国語力が、数学問題の一次試験になっている、数国複合問題のような趣になってもきた。それゆえ、数学に国語が介入してきたから、標準的理系生徒{MARCHレベルの理系に進む受験生}には、もう、戦意喪失させる問題でもある。これは、MARCHレベルの理系進学高校生には、もう、憂鬱問題のなにものでもない。事実、これは、現場の声を代弁したまでである。どうして、数学の問題なのに、読解力まで試されなければならないのか?求められるのか?

 この共通テストの数学問題の変質同様、英語にも同じことが言える。やはり、英語問題も、英文そのもの難化には制約がある。文法問題も同様である。そこで、センター試験の一倍半くらいに問題量に激増した。これは、英語力そのものではなく、つまり、上下の、垂直におけるレベルの難化ではなく、水平軸での問題の複雑化(※これを難化と捉える人もいる)が指摘できよう。これは、本来の英語読解能力や文法力そのものは半分、あとの半分は、情報処理能力(速読力などでは到底ないもの)、表や図を見て、とっさに、瞬時に、該当する選択肢の英文や語句、数字などに正解の閃きをする能力(これはある意味で、知能指数の高さ)がものいう問題に変貌したともいえる。こうした問題で高得点をゲットして、それが英語運用能力、使える英語力などと果たして言えるのだろうか?更に、共通テストの理念でもある思考力・表現力・判断力(※この判断力とはゲームに求められる瞬発力的なものではないのか?)など試せるのか?

 こうした数学や英語だけでなく、国語や日本史・世界史に関しても同様の傾向が指摘できる。
 一つの科目、それも、数学や英語に関して、他の科目の能力、受験科目能力を要する試験というものが、果たして、その高校生を、大学が求める、高等教育で伸びしろを有する受験生をすくい取ることなどできるものだろうか?

 前回のコラム、ドラフト4位の山本由伸やイチロー、また、東大に進めず、筑波大に進んだ落合陽一のように、こんな、<性悪の共通テスト>という関門などかわして、受験せず、また仕方なく、受験しても、二次試験に影響がない国公立に進むこと、これは、共通テストに馬が合わない、性に合わないという、一種、共通テスト疎外感を抱いている高校3年生に薦める、精神衛生上の、<真の自己を守るための人生の方策>でもある。自身が、行きたい学部、進みたい大学が、共通テストを重視しているところなら、それは致し方ないが、こんな<国家滅亡へ誘導する試験>を、わざわざ最重要視することはないとだけは言っておく。共通テストで高得点に執着する心根は、プロ野球で、ドラフト上位(1位や2位)で入団したいという淡い、瞬時の野心とだけは言っておこう。ドラフト上位でなくても山本やイチローなど、また、育成ドラフト(育成選手枠)から大成したメッツの千賀滉大投手やソフトバンクの甲斐拓也捕手など、共通テスト非受験組のようなものだ。受験成功者が、必ずしも、社会大成者となるわけではないことは肝に銘じておくだけのことはある。

 この大学入学共通テストとは、どれだけデジタル気質の受験生を判別するか?また、どれだけAI社会に何の疑問も持たずに生きてゆける学生を選び取るか?その、AI社会の申し子であるか、その適応力を試すリトマス試験紙ともいっていい代物である。この試験に生理的・心理的に不適応の生徒であればあるほど、その人はアナログ気質を有していると弁えるべし!共通試験に失敗した君、君こそ人間らしさを保っていると証だと自覚したまえ!事実、この共通テストは、人工知能にやらせたら、一番高得点となるようにできているというのが、その根拠でもある。



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