コラム
日本人は揺れ幅が激しいのは英語教育も同じ!
日本人は、極端に、何かにつけて振れ幅が大きい。行動や思考が、白から黒へ、青から赤へ、極端すぎるのである。ゆえに、江戸時代頃からだろうか、賢者は、昔から、日本人に中庸を説くのである。
明治維新による、近代化、王政復古としながらも、太政官制度といいながら神祇官を復活したところ、西欧の冷たい目線で、内閣制度、憲法、帝国議会を設置する。そうした、急場しのぎの、欠陥だらけの諸制度のゆがみ・綻びで、軍部の台頭を生み、第二次大戦の敗北へといたる。
戦後、GHQによる民主化により、戦前の良き部分を全否定し、面舵いっぱいとの掛け声の如く、敗戦国として仕方ないにしろ、全てが、アメリカ追従路線となってもゆく。
明治維新後、初代文科大臣森有礼などは、母国語を日本語から英語にしてしまえだの、第二次大戦敗北後、文豪志賀直哉が、日本語をフランス語にしたほうがいいだの、こうした知識人からも、極端な、言語改革が提言されるほど、日本という国は、ふり幅が両極端なのである。
平成においても、従来の詰め込み教育を否定し、ゆとり教育へと至った経緯は、記憶に新しい。その反省か(?)、また、授業数増加や教科書の内容の増量といった現象も、現場から批判の声が聞かれる今日このごろである。
数年先でも、デジタル教育の方向性か、紙の教科者が全廃される模様である。ヨーロッパの教育先進国とされた、デジタル教育先進国でさえ、タブレット端末教育の弊害から、紙の教科書とペンとノートといったアナログの手法へ回帰する国が増えつつあるとされる。日本は、アメリカで7~80年代に行われた{失敗した}ゆりと教育を、20年後に採用し、同じ轍を踏んだと反省(?)したのか、2010年代になって、ゆとり教育以前に舞いもどった。近年の、GIGAスクール構想などは、10年後くらいに、また、揺れ戻しではないが、平成時代の学校のデジタル・アナログの比重・比率に戻ってゆくと予言しておこう。
さて、英語に関しても同様である。昭和の時代、音声教材など乏しく、外国人など巷で目にする機会など皆無でもあった時代、英語は、読み・書きが主体にならざるをえない状況があった。昭和の教師もその上の世代から、話し・聞くという教育上の経験は乏しかったから、そうであるのも仕方がなった。こうした、昭和世代の中高生は、英語は読み・書きはできたけれど、話し・聞くはダメという神話、いや、通説が生まれた。実状は、読みも書けもできた中高生は、ある程度の、まともな英文法を弁えている、一部の英語族でもあった。そうした部族が、大学生で留学し、社会人となり海外赴任し、必要に迫られて、英語の話し・聞く達人ともなっていった。そうした種族でもなければ、日本国内にいて、英語の読み書きなど、英文法など、雲散霧消か、忘却の彼方へと忘れ去るのが実状でもあった。
少子化など、国民の意識にも上がらぬ昭和から平成初期にかけて、バブルへ、そして崩壊へ、同時並行的に、ソ連崩壊から、アメリカ主軸のグローバル化へ大きく時代が変動してゆくにつれて、読み・書きも本当は中途半端だったのだが、その英文法を基軸とした読み・書きから、話し・聞くのオーラル主体の教育へ180度大転換してもゆく。学校の英語の教科名が、グラマーやリーダーから、奇妙奇天烈なる、オーラルコミュニケーションやら英語表現といった、文法や読解を現場に意識させない、カモフラージュ的名称に文科省が改悪してしまった。英文法や英文読解なる意識を現場、教師や生徒から払拭する政策である。教科の、ある意味、ことば狩りが行われ始めた。しかし、塾や予備校、参考書などでは、英文解釈は減ったが、英文法や英文読解は、通常通りである。秀吉・家康の頃の、バテレン追放令やキリシタン禁教令のごとき、英語教科饗場への、内容希薄へ向けた、圧をかけ始めた。これに輪をかけるように、CD教材が当たり前、そして、パソコンやスマホでの音声学習推奨、これが、現場から、ますます、英文を読む、英文を書く、そうした行為を軽視する風潮は、読み・書くという能力を、平成以前以上に劣化させたと指摘する関係者は極少数派でもあろう。
劇作家平田オリザの弁である。
「現代の英語教育は、シンガポールのユニクロ支店長をたくさん産む教育だ」
従来のピジン英語、サービス英語、いわゆる、ポケトークで用足りる初等英会話を身に付けることを第一とするものである。こうした現象を、隠すためにも、文科省は、英検推進政策を現場中高に強要している模様である。実用英語とはいいながら、表面上は、読み・書き・話し・聞くという四技能を試す試験になっているからだ。しかし、聞くは、SNS社会、外国人がわんさかいる社会、スマホが身体の一部ともなっている時代、必然的に、聞く能力は、昭和、平成にくらべてマシ(?)にはなってきているようだが、それは、心の外国人へのバリアーがなくなったというに過ぎない。また、話す能力もそれに付随して、向上しているように見えながら、それも臆することなく、片言、ブロウクン英語を口にするZ世代の気質が、話す能力に下駄を履かせているに過ぎない。この話す・聞くという二技能は、学校の英語教育によるものというより、時代、情報化社会、それによるものである。
それに対して、読み・書く能力はどうであろうか?これは、はっきりと断言できることだが、完全に劣化、衰えてきているというのが、令和の中高生に言えることである。その例外の中高生は、必ずといっていいほど、塾や予備校に通っている部族といってもいい。また、通っていなければ、超進学校の英語のシステム、標準進学校内の一部の優秀な英語教師によるものだと断言できる。文科省推進のシラバス・システムの道路で、文科省検定の教科書という車を運転していても、一向に英語のドライビングの腕前(技能)など上がらない、ましてや、自己が到達したい目的地(希望の大学や商社マン・外交官など)などにも到達できないのは、ちょうど、公立小学校の授業と教科書だけでは、開成や桜蔭に合格できないようなもである。
平成後半から令和にかけての、文科省推進の英語教育は、読み・書き・話し・聞くの四技能といいながら、後者二技能に軸足を置くかにみえて、前者二技能の能力を<骨粗しょう症>現象への至らしめたと指摘する関係者は、王様は裸だ!と叫ぶに等しいため、巷では、現場では、その声が聞こえてこないのが現状でもある。文科省という王様の取り巻きに、英語検定協会という<取り巻きの近臣者>が囲んでいるからである。
実は、話す能力、それは、発音や流暢さをいうのではなく、話す内容とその表現をいうのであれば、むしろ、近年は、読み・書き同様に、劣化に軌跡をたどってもきた。しからば、令和の、特に、高校生は、四技能の何が上昇しているのであろうか、それは、敢えて言えば、聞く能力くらいでもあろう。地上波であれ、ネットであれ、アルバイト先の店であれ、路上であれ、必然的に、英語に出くわさない状況など皆無である。その、聞く技能は、確かに上昇しもいようが、東大二次のリスニングは完全にお手上げ状態の聞く能力である。その証拠に、英検合格者のほとんどは、特に、2級までの合格者は、初級レベルのリスニング能力で、点数をがっぽり稼いで合格している者がほとんである。
こうした、英語の実力現状をカモフラージュするためもあってか、令和になって始まった共通テストの英語問題の配点が、読解100点、リスニング100点という、超いびつな配点構成になっているのは、文科省の、そうした英語教育政策の誤りが露見しない意味でも、姑息な改革なのである。
昭和の高校生は、読み・書き能力は、本当は、それほどでもなかった、生徒の絶対数からいって、できる生徒の陰に隠れて、出来ない生徒もわんさかいたというのが実体である。それに対して、話し・聞く能力は、訓練のツールも実践経験の場も皆無で、まるっきしできなかったというのも確かに一理あり、そうでもあったことであろう。
令和の高校生は、読み・書き能力に関していえば、相対的に、昭和より劣ってもいる。劣ってなければ、塾や予備校の恩恵を受けている者だ。では、話す・能力は、どうであろうか、それは、読み・書くという文法を基盤におく内容や表現の観点からは、やはり、劣ってもいる。だが、トラベル英会話やちょっとした内容希薄なプレゼンであれば、昭和世代よりも上ともなろう。聞く能力はどうであろうか?英検2級くらいの内容表現レベルであれば、昭和より上、だが、準1級レベルともなると、昭和の高校生とあまり変わりがない。
ここで結論である。昭和の高校生は、読み・書きができ、話し。聞くができないという神話から、平成のグローバル世界に突入した日本は、話し・聞く主体(?)にして、読み・書き軽視無視(?)の英語教育ともなってしまった感が否めない。
よく、私が、冗談まじりに、知人や教え子に語るのだが、昭和の高校生が、タイムマシンで、令和の時代に来たとすれば、英語がどれほど伸びるか、真の使える英語に脱皮できるか、そう語る所以でもある。一方、令和の高校生が、同様に、昭和の英語の授業に舞いもどれば、「何?この英語の授業!こんなに、和訳や構文、文法もだけど、やんなくちゃあ、いけないわけ?数学の授業みたい!」こう吐露するはずである。文法と読解の橋渡しともなる英文解釈なる語が、現代では、死語になってもいる現状では想像に難くない。
日本人は、英語教育というものに関しても、極端に揺れ幅がある、これが、国民性によるものであるのは、仕方ないこと、民族的宿命なのでもあろうか?
英語教育においても、中庸を忘れてはいけない。
明治維新による、近代化、王政復古としながらも、太政官制度といいながら神祇官を復活したところ、西欧の冷たい目線で、内閣制度、憲法、帝国議会を設置する。そうした、急場しのぎの、欠陥だらけの諸制度のゆがみ・綻びで、軍部の台頭を生み、第二次大戦の敗北へといたる。
戦後、GHQによる民主化により、戦前の良き部分を全否定し、面舵いっぱいとの掛け声の如く、敗戦国として仕方ないにしろ、全てが、アメリカ追従路線となってもゆく。
明治維新後、初代文科大臣森有礼などは、母国語を日本語から英語にしてしまえだの、第二次大戦敗北後、文豪志賀直哉が、日本語をフランス語にしたほうがいいだの、こうした知識人からも、極端な、言語改革が提言されるほど、日本という国は、ふり幅が両極端なのである。
平成においても、従来の詰め込み教育を否定し、ゆとり教育へと至った経緯は、記憶に新しい。その反省か(?)、また、授業数増加や教科書の内容の増量といった現象も、現場から批判の声が聞かれる今日このごろである。
数年先でも、デジタル教育の方向性か、紙の教科者が全廃される模様である。ヨーロッパの教育先進国とされた、デジタル教育先進国でさえ、タブレット端末教育の弊害から、紙の教科書とペンとノートといったアナログの手法へ回帰する国が増えつつあるとされる。日本は、アメリカで7~80年代に行われた{失敗した}ゆりと教育を、20年後に採用し、同じ轍を踏んだと反省(?)したのか、2010年代になって、ゆとり教育以前に舞いもどった。近年の、GIGAスクール構想などは、10年後くらいに、また、揺れ戻しではないが、平成時代の学校のデジタル・アナログの比重・比率に戻ってゆくと予言しておこう。
さて、英語に関しても同様である。昭和の時代、音声教材など乏しく、外国人など巷で目にする機会など皆無でもあった時代、英語は、読み・書きが主体にならざるをえない状況があった。昭和の教師もその上の世代から、話し・聞くという教育上の経験は乏しかったから、そうであるのも仕方がなった。こうした、昭和世代の中高生は、英語は読み・書きはできたけれど、話し・聞くはダメという神話、いや、通説が生まれた。実状は、読みも書けもできた中高生は、ある程度の、まともな英文法を弁えている、一部の英語族でもあった。そうした部族が、大学生で留学し、社会人となり海外赴任し、必要に迫られて、英語の話し・聞く達人ともなっていった。そうした種族でもなければ、日本国内にいて、英語の読み書きなど、英文法など、雲散霧消か、忘却の彼方へと忘れ去るのが実状でもあった。
少子化など、国民の意識にも上がらぬ昭和から平成初期にかけて、バブルへ、そして崩壊へ、同時並行的に、ソ連崩壊から、アメリカ主軸のグローバル化へ大きく時代が変動してゆくにつれて、読み・書きも本当は中途半端だったのだが、その英文法を基軸とした読み・書きから、話し・聞くのオーラル主体の教育へ180度大転換してもゆく。学校の英語の教科名が、グラマーやリーダーから、奇妙奇天烈なる、オーラルコミュニケーションやら英語表現といった、文法や読解を現場に意識させない、カモフラージュ的名称に文科省が改悪してしまった。英文法や英文読解なる意識を現場、教師や生徒から払拭する政策である。教科の、ある意味、ことば狩りが行われ始めた。しかし、塾や予備校、参考書などでは、英文解釈は減ったが、英文法や英文読解は、通常通りである。秀吉・家康の頃の、バテレン追放令やキリシタン禁教令のごとき、英語教科饗場への、内容希薄へ向けた、圧をかけ始めた。これに輪をかけるように、CD教材が当たり前、そして、パソコンやスマホでの音声学習推奨、これが、現場から、ますます、英文を読む、英文を書く、そうした行為を軽視する風潮は、読み・書くという能力を、平成以前以上に劣化させたと指摘する関係者は極少数派でもあろう。
劇作家平田オリザの弁である。
「現代の英語教育は、シンガポールのユニクロ支店長をたくさん産む教育だ」
従来のピジン英語、サービス英語、いわゆる、ポケトークで用足りる初等英会話を身に付けることを第一とするものである。こうした現象を、隠すためにも、文科省は、英検推進政策を現場中高に強要している模様である。実用英語とはいいながら、表面上は、読み・書き・話し・聞くという四技能を試す試験になっているからだ。しかし、聞くは、SNS社会、外国人がわんさかいる社会、スマホが身体の一部ともなっている時代、必然的に、聞く能力は、昭和、平成にくらべてマシ(?)にはなってきているようだが、それは、心の外国人へのバリアーがなくなったというに過ぎない。また、話す能力もそれに付随して、向上しているように見えながら、それも臆することなく、片言、ブロウクン英語を口にするZ世代の気質が、話す能力に下駄を履かせているに過ぎない。この話す・聞くという二技能は、学校の英語教育によるものというより、時代、情報化社会、それによるものである。
それに対して、読み・書く能力はどうであろうか?これは、はっきりと断言できることだが、完全に劣化、衰えてきているというのが、令和の中高生に言えることである。その例外の中高生は、必ずといっていいほど、塾や予備校に通っている部族といってもいい。また、通っていなければ、超進学校の英語のシステム、標準進学校内の一部の優秀な英語教師によるものだと断言できる。文科省推進のシラバス・システムの道路で、文科省検定の教科書という車を運転していても、一向に英語のドライビングの腕前(技能)など上がらない、ましてや、自己が到達したい目的地(希望の大学や商社マン・外交官など)などにも到達できないのは、ちょうど、公立小学校の授業と教科書だけでは、開成や桜蔭に合格できないようなもである。
平成後半から令和にかけての、文科省推進の英語教育は、読み・書き・話し・聞くの四技能といいながら、後者二技能に軸足を置くかにみえて、前者二技能の能力を<骨粗しょう症>現象への至らしめたと指摘する関係者は、王様は裸だ!と叫ぶに等しいため、巷では、現場では、その声が聞こえてこないのが現状でもある。文科省という王様の取り巻きに、英語検定協会という<取り巻きの近臣者>が囲んでいるからである。
実は、話す能力、それは、発音や流暢さをいうのではなく、話す内容とその表現をいうのであれば、むしろ、近年は、読み・書き同様に、劣化に軌跡をたどってもきた。しからば、令和の、特に、高校生は、四技能の何が上昇しているのであろうか、それは、敢えて言えば、聞く能力くらいでもあろう。地上波であれ、ネットであれ、アルバイト先の店であれ、路上であれ、必然的に、英語に出くわさない状況など皆無である。その、聞く技能は、確かに上昇しもいようが、東大二次のリスニングは完全にお手上げ状態の聞く能力である。その証拠に、英検合格者のほとんどは、特に、2級までの合格者は、初級レベルのリスニング能力で、点数をがっぽり稼いで合格している者がほとんである。
こうした、英語の実力現状をカモフラージュするためもあってか、令和になって始まった共通テストの英語問題の配点が、読解100点、リスニング100点という、超いびつな配点構成になっているのは、文科省の、そうした英語教育政策の誤りが露見しない意味でも、姑息な改革なのである。
昭和の高校生は、読み・書き能力は、本当は、それほどでもなかった、生徒の絶対数からいって、できる生徒の陰に隠れて、出来ない生徒もわんさかいたというのが実体である。それに対して、話し・聞く能力は、訓練のツールも実践経験の場も皆無で、まるっきしできなかったというのも確かに一理あり、そうでもあったことであろう。
令和の高校生は、読み・書き能力に関していえば、相対的に、昭和より劣ってもいる。劣ってなければ、塾や予備校の恩恵を受けている者だ。では、話す・能力は、どうであろうか、それは、読み・書くという文法を基盤におく内容や表現の観点からは、やはり、劣ってもいる。だが、トラベル英会話やちょっとした内容希薄なプレゼンであれば、昭和世代よりも上ともなろう。聞く能力はどうであろうか?英検2級くらいの内容表現レベルであれば、昭和より上、だが、準1級レベルともなると、昭和の高校生とあまり変わりがない。
ここで結論である。昭和の高校生は、読み・書きができ、話し。聞くができないという神話から、平成のグローバル世界に突入した日本は、話し・聞く主体(?)にして、読み・書き軽視無視(?)の英語教育ともなってしまった感が否めない。
よく、私が、冗談まじりに、知人や教え子に語るのだが、昭和の高校生が、タイムマシンで、令和の時代に来たとすれば、英語がどれほど伸びるか、真の使える英語に脱皮できるか、そう語る所以でもある。一方、令和の高校生が、同様に、昭和の英語の授業に舞いもどれば、「何?この英語の授業!こんなに、和訳や構文、文法もだけど、やんなくちゃあ、いけないわけ?数学の授業みたい!」こう吐露するはずである。文法と読解の橋渡しともなる英文解釈なる語が、現代では、死語になってもいる現状では想像に難くない。
日本人は、英語教育というものに関しても、極端に揺れ幅がある、これが、国民性によるものであるのは、仕方ないこと、民族的宿命なのでもあろうか?
英語教育においても、中庸を忘れてはいけない。