コラム
受験科目と自身の長所と短所
人間には、当然ながら、長所と短所とが必ずあるものである。人格面でいえば、後者を如何に直すか、克服するか、それが優先されもする。躾という側面である。後者は、社会や組織といった人間関係の最大の障害ともなるからである。今やデジタル社会で、デジタル器機と向きあう時間が、生の人間よりも長い昨今、勉強はもちろん実社会でも、“躾”は二の次でいい傾向にある。だらか、その反動やもしれない、企業では、就活では、コミュニケーション力を重視する流れになってきている現象である。そうである、AI時代は、アプリが作れる、プログラミングができる、IT器具が自在に操れれば、性格、人格に少々の問題があっても、食いっぱぐれない時代であることが、そのことの証明でもある。極端なことを言わせてもらえば、優秀なデータサイエンティストであれば、松下幸之助・稲盛和夫のビジネス書やP・ドラッカ―のマネジメントなど一切知らなくても、サラリーマン・ビジネスマンとしての社会人として生き残ってもいける時代であるということだ。
では、能力面では、どうであろうか、脚は遅いが、パワーがある、そうしたプロ野球のバッターは、前者を無視し、後者に磨きをかけて、ホームランバッターをめざすというアドバイスが大勢を占めるであろう。技術面では、伸びしろのない欠点にかかずらって、自身の長所を伸ばす時間・労力をなおざりにする愚行を戒めるというのが、アスリートの一般的通念でもあろう。短所を消すより、それをそのままに、長所を大いに伸ばそうとする傾向である。
この運動選手に関するスキル向上の慣例といったものを、受験の領域に、敷衍して考えてみよう。
共通テストで、高校3年の夏の段階で、数学5割、英語7割、社会6割、理科5割、国語5割の得点能力を有する、国公立をめざす生徒がいたとしよう。その生徒は、受験戦力として、苦手科目の克服に、夏休みの自習時間を充てるという手法をよく耳にする。このタイプは理系に見えて、実は文系の生徒であるとの仮定の話である。英語は、まあ、あと半年で8割強にいけば御の字、社会と理科は、まだ知識系の暗記不足が、脚を引っ張る、国語は、古典と漢文が未完成、いや、現代文も含め、少々苦手といった生徒である。この夏から秋にかけて、重点比率をどの科目に置くか、恐らく、暗記系科目、暗記不足で、点数が低い方面を強化するであろう。この戦略は、プロのアスリートの自己克服のものと真逆でもあろう。プロともなれば、もう、自身の技能の伸びしろも大方予想もつく、自覚もある。よって、弱点克服など、非効率的にして、非合理的でもある。勿論、このように、自身の数学や理科が、もう、頑張っても、7割後半が限度である、問題によっては、7割すら切る場合も生じる、そう、その数学や理科といった最大の得点稼ぎ頭の正体が、自身に自覚されてしまう高校生が少なくないであろう。だから、苦手?いや、低得点科目に希望を見出だそうと、国語や数学や理科といった弱点科目重視戦略にでるケースが少なくないのである。
将来、医師、エンジニア、薬剤師など、大学での自身目標が決まっている高校生には、文転という言葉は、自身の辞書にはないはずである。理系方面への覚悟とやらを内に秘めているからである。一方、何となく、理科系の種族と、また、できれば国公立にと、将来像が、茫漠としている生徒に限り、数学という科目を軸に、理科という科目、この決意の基軸がブレ始めるのである。理系・文系を、ある意味、科目の出来不出来で決めるからでもある。典型的なのが、将来東大文Ⅰ・Ⅱや一橋をめざす高校1~2年生が、高校3年にかけて、数学に白旗をあげ、なおかつ、プラスαの理科一科目に嫌気がさして、早稲田や慶應の非数学受験科目コースを選ぶケースである。これなども、文系内での“純文転”ともいいうる事例である
メジャーリーガーのみならず日本のプロ野球でもよくみかける、DH打者という存在がある。この部類に属する選手は、まず、脚が遅い、よって、俊敏なる動作を要する守備から外される、しかし、とびぬけたパワーがあるホームランバッターが、まさしく、DH選手になるルートである。オールラウンドのプレーヤーが、数学が得意なら、理系、また旧7帝大の文系にチャレンジし、そして合格できる素質をもつ者、数学が苦手なら、ヒットは打てるがホームランは無理、でも、守備が巧いタイプで早慶といったところだろうか、ヒットはイマイチだが、守備や走塁がピカいち、それが、MARCHレベルといったところかもしれない。
なぜこんなことを言うのか、それは、中学時代は、英数国理社と五教科が、さほど苦手でもない、その五教科に、高校筑前になっても夢を託せた。しかし、高校時代に突入すると、その夢は、脆くも潰え去るというのが、日本の教育システムのゆがみなのである。これとパラレルなのが、高校野球では、四番でエースのピッチャーという選手はざらにいる。これが、プロ野球ともなると、そうは問屋は降ろさないという事態となるケースに比類してもいよう。日本の中等教育の数学離れ、理系離れ、それを克服するは、少子化を食い止める政策や大谷翔平を野球界が率先して育成するに等しい、無理難題でもあるのである。
以上のように、5教科の得手・不得手の自身の力量といったものは、エリート甲子園球児が、プロの世界に入るや、初めて自身のスキルの正体、才能の正体といったものをまざまざと見せつけられのは、丁度、高校生が、理系文系を問わず、オールラウンドの自己の能力に正邪、有無、強弱といった様々なる烙印を押してしまうことと似て非ではないように思われるのである。こうしたアスリートに内在する資質を見出だす指導者、教師は、皆無に近いのである。その選手とコーチ、その生徒の教師、この出会いといったものは、ある意味、運の領域なのである。こうした名伯楽にお目にかかれない自身の運命といったものは、舵がない、舵が壊れかけた、舵が脆い、そうした帆船でもあろう。
道標なき、思春期の受験生は、高校1年での目指すべき夢、高校2年での目指すべき目標、そして、高校3年でたどり着ければよしとする目的になれ落ちるのが、大学受験という定めの実相なのである。
ここでいわせてもらうが、高校1年で夢を有し、覚悟という武器で、それを追い求めても、こういった言葉に帰着するのは好きではないが、悲しいかな、素質、才能といったものがそれを妨げてもいる、いや、高校数学程度のものならば、やはり、環境といったものが半分以上左右するといってもいい。学校や塾・予備校の責任は重い。先達はあらまほしきものなり、学校との相性、学校のカリィキュラムの良し悪し、教師の当りハズレ、良き友の存在、そして、塾や予備校、そこでの講師との出会いなどで、受験科目の4番打者、数学という科目を、自身の“共通テストに臨む、我がチーム”内に有することもできるのである。
因みに、受験における科目を、野球の打順で喩えてみると以下のようでもあろうか?
三番打者 英語 四番打者 数学 五番打者 国語{※理系だと物理・化学}
六番打者 社会(歴史や地理){※理系だと化学・物理}
国語は、実質、現代文のことである。古文は、一番打者、漢文は、二番打者とも言えようか。
名監督野村克也は、真の四番と本物にのエースは育成することができないとまで語っている。これを、自身の数学に準えると、高校生には、身もふたもなく、絶望的にもなるが、それを真実ととるか、事実ととるか、仮説ととるか、それが、各高校生自身の命題ともなる。
以上のように、自身の受験チームに、理系・文系を問わず、数学が得意、即ち、超スラッガーいる受験生(チーム)は、強いのである!
では、能力面では、どうであろうか、脚は遅いが、パワーがある、そうしたプロ野球のバッターは、前者を無視し、後者に磨きをかけて、ホームランバッターをめざすというアドバイスが大勢を占めるであろう。技術面では、伸びしろのない欠点にかかずらって、自身の長所を伸ばす時間・労力をなおざりにする愚行を戒めるというのが、アスリートの一般的通念でもあろう。短所を消すより、それをそのままに、長所を大いに伸ばそうとする傾向である。
この運動選手に関するスキル向上の慣例といったものを、受験の領域に、敷衍して考えてみよう。
共通テストで、高校3年の夏の段階で、数学5割、英語7割、社会6割、理科5割、国語5割の得点能力を有する、国公立をめざす生徒がいたとしよう。その生徒は、受験戦力として、苦手科目の克服に、夏休みの自習時間を充てるという手法をよく耳にする。このタイプは理系に見えて、実は文系の生徒であるとの仮定の話である。英語は、まあ、あと半年で8割強にいけば御の字、社会と理科は、まだ知識系の暗記不足が、脚を引っ張る、国語は、古典と漢文が未完成、いや、現代文も含め、少々苦手といった生徒である。この夏から秋にかけて、重点比率をどの科目に置くか、恐らく、暗記系科目、暗記不足で、点数が低い方面を強化するであろう。この戦略は、プロのアスリートの自己克服のものと真逆でもあろう。プロともなれば、もう、自身の技能の伸びしろも大方予想もつく、自覚もある。よって、弱点克服など、非効率的にして、非合理的でもある。勿論、このように、自身の数学や理科が、もう、頑張っても、7割後半が限度である、問題によっては、7割すら切る場合も生じる、そう、その数学や理科といった最大の得点稼ぎ頭の正体が、自身に自覚されてしまう高校生が少なくないであろう。だから、苦手?いや、低得点科目に希望を見出だそうと、国語や数学や理科といった弱点科目重視戦略にでるケースが少なくないのである。
将来、医師、エンジニア、薬剤師など、大学での自身目標が決まっている高校生には、文転という言葉は、自身の辞書にはないはずである。理系方面への覚悟とやらを内に秘めているからである。一方、何となく、理科系の種族と、また、できれば国公立にと、将来像が、茫漠としている生徒に限り、数学という科目を軸に、理科という科目、この決意の基軸がブレ始めるのである。理系・文系を、ある意味、科目の出来不出来で決めるからでもある。典型的なのが、将来東大文Ⅰ・Ⅱや一橋をめざす高校1~2年生が、高校3年にかけて、数学に白旗をあげ、なおかつ、プラスαの理科一科目に嫌気がさして、早稲田や慶應の非数学受験科目コースを選ぶケースである。これなども、文系内での“純文転”ともいいうる事例である
メジャーリーガーのみならず日本のプロ野球でもよくみかける、DH打者という存在がある。この部類に属する選手は、まず、脚が遅い、よって、俊敏なる動作を要する守備から外される、しかし、とびぬけたパワーがあるホームランバッターが、まさしく、DH選手になるルートである。オールラウンドのプレーヤーが、数学が得意なら、理系、また旧7帝大の文系にチャレンジし、そして合格できる素質をもつ者、数学が苦手なら、ヒットは打てるがホームランは無理、でも、守備が巧いタイプで早慶といったところだろうか、ヒットはイマイチだが、守備や走塁がピカいち、それが、MARCHレベルといったところかもしれない。
なぜこんなことを言うのか、それは、中学時代は、英数国理社と五教科が、さほど苦手でもない、その五教科に、高校筑前になっても夢を託せた。しかし、高校時代に突入すると、その夢は、脆くも潰え去るというのが、日本の教育システムのゆがみなのである。これとパラレルなのが、高校野球では、四番でエースのピッチャーという選手はざらにいる。これが、プロ野球ともなると、そうは問屋は降ろさないという事態となるケースに比類してもいよう。日本の中等教育の数学離れ、理系離れ、それを克服するは、少子化を食い止める政策や大谷翔平を野球界が率先して育成するに等しい、無理難題でもあるのである。
以上のように、5教科の得手・不得手の自身の力量といったものは、エリート甲子園球児が、プロの世界に入るや、初めて自身のスキルの正体、才能の正体といったものをまざまざと見せつけられのは、丁度、高校生が、理系文系を問わず、オールラウンドの自己の能力に正邪、有無、強弱といった様々なる烙印を押してしまうことと似て非ではないように思われるのである。こうしたアスリートに内在する資質を見出だす指導者、教師は、皆無に近いのである。その選手とコーチ、その生徒の教師、この出会いといったものは、ある意味、運の領域なのである。こうした名伯楽にお目にかかれない自身の運命といったものは、舵がない、舵が壊れかけた、舵が脆い、そうした帆船でもあろう。
道標なき、思春期の受験生は、高校1年での目指すべき夢、高校2年での目指すべき目標、そして、高校3年でたどり着ければよしとする目的になれ落ちるのが、大学受験という定めの実相なのである。
ここでいわせてもらうが、高校1年で夢を有し、覚悟という武器で、それを追い求めても、こういった言葉に帰着するのは好きではないが、悲しいかな、素質、才能といったものがそれを妨げてもいる、いや、高校数学程度のものならば、やはり、環境といったものが半分以上左右するといってもいい。学校や塾・予備校の責任は重い。先達はあらまほしきものなり、学校との相性、学校のカリィキュラムの良し悪し、教師の当りハズレ、良き友の存在、そして、塾や予備校、そこでの講師との出会いなどで、受験科目の4番打者、数学という科目を、自身の“共通テストに臨む、我がチーム”内に有することもできるのである。
因みに、受験における科目を、野球の打順で喩えてみると以下のようでもあろうか?
三番打者 英語 四番打者 数学 五番打者 国語{※理系だと物理・化学}
六番打者 社会(歴史や地理){※理系だと化学・物理}
国語は、実質、現代文のことである。古文は、一番打者、漢文は、二番打者とも言えようか。
名監督野村克也は、真の四番と本物にのエースは育成することができないとまで語っている。これを、自身の数学に準えると、高校生には、身もふたもなく、絶望的にもなるが、それを真実ととるか、事実ととるか、仮説ととるか、それが、各高校生自身の命題ともなる。
以上のように、自身の受験チームに、理系・文系を問わず、数学が得意、即ち、超スラッガーいる受験生(チーム)は、強いのである!