コラム

水泳の授業は必要?不要?~人生の危機管理~

 近年、猛暑の夏で、従来では考えられない学校の授業での現象をニュースで知った。超高温のため、学校の体育の授業で、水泳が中止となるケースが頻繁に起こっているという。素人的、昭和世代の水泳授業経験者からすれば、“暑いから体育で、水泳なんでしょう!”と叫びたくもなるが、そうした通念を通り越すレベル暑さだそうである。プールの水温が、規定以上に高温ともなって、一種、生温い風呂の中での水泳ともなるからだそうだ。困った状況である。日本の周辺近海の温暖化で、漁獲量が激減している様が、いよいよ、人間の学校の授業にまで影響する時代ともなった。

 また、そうした事態とも絡んでか、また、少子化と校内のプールの老朽化による建て替え問題(数億円の建設費用)などで、学校で水泳の授業は不要ではないかという議論も浮上しているとも聞く。そもそも、海洋国家、ほとんどの都道府県は海に面していることも相まって、日本人は、明治以降、体育の一環で、泳ぐ技能は身についておいてしかるべきとの考えからのものであろう。しかし、近年では、フェリー、遊覧船、プレジャーボート、漁船、釣り船、川下り舟などに乗り込む際に、テレビの映像からも明白なように、必ず、ライフジャケットを装着することが、ほぼ義務付けられてもいる現状から、水辺、川周辺、海岸や海上でも、ライフジャケットを身に付けている光景が当たり前になっている状勢だこうした状況から、もはや、体育の授業で、泳ぎ方を敢えて教授する必要などない、むしろ、高温の夏、しかも、プール設備の老朽化と少子化、このトリプル要因を鑑みて、むしろ水泳を小中の授業から除外した方がベターであるといった意見がその根拠でもある。

 こうした事態もあってか、塾の教え子から私の周辺の知人の方々に至るまで、小学生から、水泳教室に通わせる親御さんが意外にも多い。

 これは、既に言い古された言だが、今や、ポケトーク、スマホの翻訳機能が進化し、花盛りの現今、学校で、使える英語、言わば、英会話の如きものは、不要である、英語よりもパソコンなどプログラミングやIT技能に時間を振り向けるべきであるといった、一種、ひろゆき的言説が、流布してもいる。確かに、海外旅行、インバウンドの外国人、彼らとコミュニケーションするなら、ポケトークやスマホの通訳機能で、ほとんど用足りる時代である。事実、鎌倉や横浜の飲食店の主人などは、事実これで用足りる、十分でもあると言って使用している者が多い。こうした、実用的英語オンリーの部族は、何も、難しい論文を読むでもない、また、英字新聞や雑誌も縁のない生活を送ってもいる。だが、商社マンやメーカーの海外営業マンは、こうした機能に依存する姿勢では、当然、ダメであることは重々承知でもあり、誰でも想像がつく。予定調和の英会話ですむレベルと予定不調和の英会話が必要となるレベルの差でもある。

 実用的で、伝えたい内容・目的が明瞭である時、ポケトークなどは、単純明解に、その趣旨を通訳してもくれる。更に、学校などでの、説明文や小説、論文でさえ、AI機能で処理してくれる時代だ。しかし、思いもよらない状況、先が読めない商談、丁々発止相手と、やり合う場面などでは、文明の利器は、無力でもあるということだ。これは、商社マンの経験談なのだが、フォーマルな商談の真剣な英会話より、商談後のフランクな食事の際の英会話の方が数段レベルが高いスキルが求められるという弁からもうかがい知れよう。シンガポールのタクシードライバーに、目的地を言う、運賃を聞く、そうした英会話より、社内で、都市の現況や景気の動向など質問し、聞くスキルが難しということでもある。これは、見知らぬ街のバイパスや高速道路を走るより、街中の路地や裏道を走る方がどれだけ神経や頭と使うのか、それとも似ている。

 やはり、IT機能の翻訳レベルがどんなに上がろうとも、それがChatGPTであれ、片言でもいい、ブロウクンでもいい、その器機がない状況で、なんとか相手に英語で、コミュニケーションを最低限とれるような英語力を身についていてしかるべきであるといった論拠からも、中高はもちろん、小学校からも英語という教科は放逐されずにきているというのが筋論として想像に難くない。
 
 水泳も同類である。思いもよらぬ状況、まさかの事態、想定外の環境などに投げ入れられた時、いざ、ライフジャケットを装着していない我が身{翻訳機能を有するスマホを持たない素の自分}を守る術として、最低限度泳げる能力というものが必要なのは、どんなに、各自一台、翻訳機能内蔵のスマホを携帯している現状であっても、最低限度の英会話能力は必須であるのと同じ理屈にもなるのである。少々脱線もするが、巷の高校女子の中に、学校、プライベートの予定などを書き記す際、スマホではなく、紙の手帳でメモする者が少なくない現実が参考にはなるであろうか。無意識か?デジタルよりアナログを信用している証左の一つではないだろうか?

 こうした、学校における水泳の授業、学校における英語の授業、まっとうな常識、良識を有する者ならば、得心する真実とやらは、GIGAスクール構想に象徴されるように、すべてデジタル教材にしてしまうという文科省の主旨に対して、最後の砦でもある、人間が素の状態、着の身着のままでサバイバルしてゆかねばならない状況に立たされた時、裸一貫で、厳しい現実に投げ出された時、具体的に、電気がなくなる、デジタル器機が故障する段ともなった時、紙の教科書・教材などで勉強せざるをえない事態を想定しょうようともしない少年少女は、丁度、財布、パソココン、身分証、クレジットカードなど全てが全て、スマホ一つで日々を済まして便利で功利的で、煩雑さから解放されて幸せと感じている親御さんと似た者親子とも言えなくもないであろう。

 先日も、同番組で知ったが、新聞購読者数より、サブスクの契約者の方が多いそうだ。ほとんどの家庭、社会人は新聞を、読まない、購読しない令和の時代であるとのこと。アナログツールからデジタルツールへのパワーシフトである。

 こうした、情報ツールの片寄り、超デジタル化は、選挙でSNSというものが多大な影響を及ぼしてきている現実を表出し、兵庫県知事選{立花孝志による斎藤元彦再選の誘導}や東京都知視選{石丸伸二によるSNS戦略による蓮舫への圧勝}で証明されてもいる。しかし、その被影響者は、フェイクニュースや偏った思想信条に動かされている愚衆でもある。人間に、双眼があるように、その左右の目は、デジタルの眼、そしてアナログの眼と、対象物の遠近感、そして、リアルの映像を把握するためにも必要不可欠であることは、生物学上百も承知であっても、ものごとの、情報手段は、デジタルのみにあるという、まるで、Z世代が、“全てが全てこの携帯一つで用済むね!”根性で日々を送っている感覚、認識と同質のものである。

 価値観の多様性、生き方の多様化、こうした文言は、社会の表層を言っているに過ぎない。実は、世の中の、世界の、その多様性とは、感覚、感性レベルにとどまってもいる。思考、理性レベルでは、むしろ、画一化へと進んでもいよう。

 これは、『宮本武蔵』の巻末の吉川英治の言葉である。

 波騒(なみざい)は世の常である。波に任せて泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い、雑魚は踊る。けれど誰が知ろう、百尺下の水の心を、水の深さを。

 自己自身の内面に、それは、衣食住といった生活次元を越えてのことだが、多様性という危機感を有していない輩は、生の保険・生の保障をしていないに等しい連中なのだ。でも、大方の人は、言うであろう。生命保険、自動車保険、疾病保険など、一見無駄に思える保険というものに、どれほど多くの人が加入しているか。ほとんど、7~8割の人は、そういう人生上の災厄、災難には、理性でわかってもいても、加入する不合理性を認識してもいる。保険加入者は、少々脱線もするが、自衛隊の軍事費の増額もだが、いざという時に備えての負担額であることは、大衆、国民は熟知してもいよう。保険金に充てるなら、その金で家族旅行を楽しんだ方がいい、軍事費に予算を振り向けるなら、年金増額や社会保障の増額へといった、超現実的考えが頭をもたげもするが、たいていの日本人はそうは、考えない。これは、家族、国家レベルであり、社会性と最優先している行動である。だが、この、保証・保障といったものが、形而上的、即ち、自身の人生90年上のことともなると、その目がかすれてもくる、視力がにぶる、これが、現今のコスパ・タイパ主義の根本ドグマの淵源でもある。

 水泳授業によって、泳げるようになる技能、英語授業によって、片言英語が話せるようになる語学力、こうしたスキルは、人生80年以上のなかで、恐らく、必要とな状況などに出くわす人間など、日本人の数パーセントにも満たないのではないだろうか。だからと言って、まったく泳げない、まったく英語が話せない、これではダメという社会的共通認識が、そうした授業を維持させてもいよう。

 将来、泳げなくてもいい、英語が話せなくてもいい、こういう輩は、人生上の保険・保障を自身に課してもいない連中でもあるということだ。それは、畢竟、数学や理科、そして社会といた科目にも該当する。中等教育おける学びの教科とは、人生上の保険・保障のようなものだ、掛け捨てであるとは、分かりながらも、英数国理社を学ぶ精神、それを、教養ともいう。教養とは、なにも大人だけの専有物ではない。実は、小学生から高校生にもいいうることなのだ。

  


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