コラム

規律より文明が、自由より文化が生まれる

 洋の東西を問わず、高等教育にはエリート大学というものは厳然としてある。アメリカのアイビーリーグ、イギリスのオックスブリッジ、フランスのグランゼコール、中国の精華、北京、韓国のソウル大などだ。
 日本とて、旧7帝大から国立、私大の早慶にいたるまで、“エリート”のイメージがまとわりつく。

 こうした大学が、文明の牽引役、国家の繁栄を担う重要な役割を果たしている事実は疑問の挟む余地はない。恐らくは、こうしたエリート大学へ進む者は、先天的にIQとやらを授かっているか、また、裕福な家庭環境による“文化資本”によるものか、はたまた、自身の刻苦勉励、常人離れした努力の賜物とかで、世の‘エリート組’に入ったといってもいい。

 わかりやすい例として、東京大学の入試問題が、典型的でもあろう。センター試験から共通テストにかけて、まず、英数国理社と、“オールラウンドプレーヤー”の如きに、9割近い点数と取り、二次では、理系でも国語が課され、文系でも数学を解くという関所が待ち構えている。その難関を突破した者が、高等教育の最高学府の頂点に立つ者の一員になれる。この一員ともなれば、東大卒に準ずる“頭がいい奴”として世間では、一般的に認知される。このイメージは、東大中退者の方が、早慶卒業者より、いや、一般国立大卒者よりも、庶民が抱く知的イメージは断然高い。恐らく科挙から派生した、東洋的知的イメージに由来するものであろう。

 初等教育から中等教育への勝者が、6年間、学びという規律の下に精進した、その受験の金メダリスト、それが東大合格という社会通念的偉勲でもある。

 今やピアニストの寵児でもある角野隼斗のような、天才的ピアニストにして、東大工学部の大学院卒といった二刀流の天才は、ここでは言及しない。バイオリニストで、ハーバード卒とジュリアード音楽院卒の肩書を持つ廣津留すみれのような才媛も同様である。

 こうした文明の進歩の基礎を支えるエリート達は、医学部に進む者同様に、趣味・部活・娯楽を抑制し、勉学のみで6年間、文明のエリート街道線路を突き進んでも行く。これは、文系における霞が関のエリート官僚も同様である。

 一般的に、以上の新幹線的中等教育の路線に乗れなかった、はみ出た、適応できない高校生というものが、世の文化の担い手ともなる。世のミュージシャンが有名だ。井上陽水、さだまさし、山下達郎、桑田佳祐から、米津玄師やAdoに至るまで、学校教育においては、脱落組の連中でもある、しかし、音楽という神に愛された部族なのだ。絵画においても、印象派の連中は、まさしくその種族なのだ。また、政治においても明治維新の偉人も、下級武士によるものであった。異端にして、反主流、封建制度から敢えて脱却した連中だ。弊著『反デジタル考』の中でも言及したことだが、「文明はエリートが作り、文化は非エリートが作る」それが、人類史における私説でもある。

 皮肉めくが、こうした革命児たちは、文明、体制、学校、教育という、規律を必須とする、一種“不自由”から脱落したことで、新たな“文化”を生み出してもきた。ここに、文化の故郷、文化の拠所、文化の揺籃という存在理由としての自由というものの必要性が浮かびあがってもくる。自由とは、ある意味、世の常識、大衆の固定観念から沸き上がる、こみ上げてもくる疎外感ともいって精神状況のことをいう。社会にめぐらされている“鎖”からの解放への渇望ともいっていいものだ。

 三木清の「孤独は、山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にあるのである」という言葉の定理が、この疎外感が変貌した形で、異端者を革命児、成功者へと祭り上げる。人間は、詩人、小説家となるには、孤独が必要だとされる。よく言われる、「イケメンで、金持ちで、幸せな奴は、名作とされる小説など書けない」という通説がそれを言い表してもいよう。人里離れた自然の中にいても、名作は生み出せない。宗教家(僧侶)となるか、せいぜい、何ら人間関係に悩むことのない農家や漁師と違わぬ人間になれる程度である。

 私が言いたい本質は、ここにある。世は、個性だ、子どもの自主性だ、興味あるものだけを授けよ、こうした教育方針は、実は、孤独が名作を、思想を生むという真実を盲信し、我が子を“文豪”に育てようと、ぽつんと一軒家におくような事に等しい愚挙であること。それは、自然児、野生児のように育てるということに類するものである。親が、我が子を、詩人や小説家に育てようと、それには孤独が必要だ、だったら、自然豊かな山の中へ放逐して育てるに限ると妄信するバカ親が、教育には、自由が必要だ、立派な大人、いっぱしの社会人にするには、子供のころから、あらゆる制約のない自由な環境に置くべきだと早計して、何物にもならない人間に仕立て上げる末路に等しいということに気づいていない。

  教育における自由の死角とは、無菌状態の空間で、非衛生的なものを遠ざけ、逆に、自己免疫力を弱めてしまうというパラドクシカな皮肉が潜んでいる事実なのだ。ここにこそ、教育における“自由と規律”の秘儀の、忘れてはいけない真実があるということを知らぬ輩がなんと多いことか。これは、別次元にもなるが、今年20025年のノーベル賞受賞者、北川進京大特別教授の吐いた“無用の用”(老荘思想に由来するもの)の大切さにも似ている真実だ。
 では、次回に、この自由というものの分母を支えている要素・要因がどういうものか、アーティストの“ちゃんみな”の弁から、私見の論拠を盤石化してみたいと思う。(つづく) 



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