コラム

早稲田文系学部の変貌からの、日本の行末

 小説家城山三郎が、海軍に志願し、その兵隊の時、敗戦を迎えた、その時の感想をこう述べている。

 「ああ!空はあんなにも高かったのか!」

 この言葉は、人生で何かしろの長いトンネルを体験した者のみが心に響く感慨でもあろう。あの名作映画『幸せの黄色いハンカチ』の高倉健扮する主人公が、刑期を終えて、娑婆にでてきて、空を見上げる表情をも彷彿とさせる言葉である。

 個人的ながら、私も僭越ながら、この言葉に類する真実を経験している。

 母子家庭であった私は、理想の高い国立大学を目指して、長い浪人生活をする羽目となった。理想と現実、つまりは、大学の難易度と自身の学力の距離感など、まるで、アメリカの国力を考慮せず、旧帝国陸海軍が、太平洋戦争に挑んでいったメンタルに似たものがあったやも知れない。まるで、日露戦争で僅差で勝利した体験が、またも訪れるのではないかと妄想した、旧日本軍の幹部のようでもあっただろう。

 まず、1浪目は、地元石巻での宅浪時代である。その間、苦手な数学や理科2科目などそっちのけで、ほとんどの時間を小説(文豪とされる作品ばかり)を読む時間に充てていた。高3生の時に比べて、当時共通一次の1000点満点の数学と理科二科目の400点分などまったく伸びない状態であった。そこで、2浪目に、東京のお茶の水の駿台予備校へと通うことになった。そこは、坂を下ると世界一の古書店街が、魅力的な本を並び立ててもいた。小説好きの私は、予備校の授業が終わると、普通は自習室で、復習や演習をするものだ。来年の受験科目5教科7科目に24時間を割かねばならぬ身の上にあっても、やはり、古書店で、特に、文庫の川村書店という、古本文庫本専門店で、絶版となった小説などを買いあさり、読み耽ったり、また、予備校のテキストの現代文で出くわした、また、模試で採用された、評論家や思想家などの書籍を買っては、読み耽る2浪時代でもあった。この時に入れ込んだ作家は、森有正、福田恆存、柄谷行人、蓮見重彦などであった。当然、こうしたルーティーンは、受験生には、厳禁な行為というものが定説でもあろう。わかちゃいるが、やめられない!それにも近い精神状態でもあった。こんなわけで、2浪して、例の大学は玉砕!3浪目で、母親に一年の猶予期間を申し出て、来年は、英国社の3教科の早慶に絞るという念書のようなものを書いて、3浪目時代は、朝日新聞奨学生として、学費は返済無用、住むアパート(超オンボロアパート)を支給され、そして、8万近いアルバイト料までいただける奨学生としての、3浪目に入った。その次の年、慶應大学に合格するわけだが、その、三田キャンパスの南校舎前の合格発表掲示板に、自身の受験番号を見た時、そうである、空を見上げたかわからないが、「ああ!空はあんなにも高かったのか!」といった感慨にた思いが沸き起こってもきた。これで、好きな小説や評論、思想書が読める、そういった、3年間の受験勉強と本の世界との葛藤のもやもや期間からの解放感といったものが私を覆ったのであろう。城山三郎の抱いていた、理不尽で、抑圧的な環境と、私の置かれていた、受験勉強という3年間というものがシンクロし、その場(合格発表の掲示板の前)で私の精神の中でつむじ風のように舞い上がった想念のようなものだったかもしれない。この一年間は、幣著『ポップスの規矩』の中で、山下達郎論と交差させ私小説風に語ってもいる。

 さて、前回は、自然科学系の伸びシロが高い大学、いわゆる、京都大学がノーベル賞受賞者の数で、東大に優るということを語った。では、文系における“京都大学”を今回は語ってみる。

 一昔、二昔も前になる、昭和の時代である。文系で、ユニークな人材を、また、優れた文化人を輩出した大学として、早稲田大学は、まさしく最右翼でもあり、文系知識人の梁山泊でもあった。戦後高度経済成長の日本社会の文化を牽引したのが、早稲田大学に籍を置いた人々でもあった。この早稲田の文系の気風は、平成の時代に入り、下降線を辿り、令和にかけては、今や、プチ東大的な大学になりかけているのも、世の風潮、時代の流れ、世界の変化、それに合わせなければ、高等教育機関として生き残ってはいけない世界に置かれている、その田中愛治総長の焦りの証左でもあろう。
 恐らく、昭和の時代、早稲田大学をめざす学生は、勿論、中等教育において、標準以上の知的水準を有し、また、基礎学力もあった連中であっただろう。そうした彼らは、勉学は、受験に必要な最低限度{※早稲田大学の一般入試には合格できる力}は身に付けながらも、高校生時代は、小説、演劇、芸術、音楽などなど、ひそかに磨きをかけていた、いや、プチ封印をしていたやもしれない、さらに、ぞっこんのめり込んでいた連中もいたことであろう。こうした、好きなことを、抑制・セーブ・片手間で温めていて、その素養なりが、芽や根っこは出しはじめてもいた猛者たちである。そうした彼らが、自由の身となる大学生となるや、キャンパスの授業はそっちのけ、二の次、最低限度の単位さえ取れば、それで十分派は、自身の趣味の領域を、セミプロ、そしてプロとして、自身の生業として完成させてもいった。その典型は、大橋巨泉、永六輔、タモリから野坂昭如、五木寛之、寺山修司にいたるまで綺羅星の如くいる。昭和のサブカルの巨人たちである。

 こうした、成功組から生まれた言葉「早稲田は、中退一流、留年二流、卒業三流」は、余りに有名であり、令和の国際教養学部や文化構想学部の、授業にきちんと出て、レポートも完璧に提出する学生には、信じがたい母校の一面でもあろう。

 実は、理系の京大、文系の早稲田、勿論、京都人研という桑原武夫が率いる知の集団も、京大文系に存在したことを忘れてはなるまい。この共通的とは、戦前では、旧制中学、戦後は、中等教育(中学と高校)、この5~6年という期間は、知の束縛であり、興味対象の封印でもあり、好奇心の冬眠、いわば、知の、知識の根底として否が応でもしなければならない、学びの“規律”としてのトンネル期間でもあったはずだ。これは、戦前の軍隊の中で娯楽や趣味が厳禁とされた環境にも比類する。これが、平成に入るまで、昭和の学生たちは、その潜伏期間があり、大学で自身の“封印していた、やりたいこと”が爆発する、それが、京大生の理系研究者の発見や発明につながったのである。一方、早稲田における文系文化人は、マスコミや娯楽、文壇などに、新しい気風、独創的な娯楽などを輩出せしめたといってもいい。この因果関係は、スマホもない、黒電話の時代の方が、男女の恋愛関係の密度が濃かったという説にも類似している。郷ひろみの歌詞“会えない時間が、愛育てるのさ♪”がそれを証明してもいる。これは、感情の側面だけではなく、知性の側面でもいいえる“真実”である。水を極力あげないトマトやメロンの方が、芳醇で甘い実となる栽培における手法をも彷彿とさせる。便利さ、快適さ、合理性、実利性を追求する令和の学生のおかれた環境では、文化が生まれにくい状況の根拠ともないっていようか?同様に、飛躍めくが、鎖国時代の日本が、どれほどのインバウンド外国人に、今や魅力の日本文化の温床となっていたかに思いを巡らさらざるをえない。“好きなことを封印しながら、知の構築(中等教育における基礎学力)にいそしむ”という昭和時代の気風が、現代では否定されもいるが、文化の側面からは皮肉と言わざるを得ない。

 ここでも、ノーベル賞受賞者の大隅良典氏が、警鐘をならす、一見無駄に見える基礎研究への政府の態度が浮上する。実利性のある研究のみに、効率的に研究費を充てる政策の死角である。これは、国家、大学レベルの話である。このマクロの視点を、ミクロの個人レベルに集約すれば、同じことが言える。中学生から高校生にかけて、極端に二極分化している教育的光景だ。

 十代で、自身の好きなこと、興味のあること、特技など、本人が自覚すると、それのみに猪突猛進し、勉学の側面は二の次にする風潮である。また、そうした、自身のやりたいことが、自己の強味が見つからない連中は、受験勉強の6年間に明け暮れる。せいぜい、部活動に熱をあげる程度である。それが、大学へと直結するのは、学校推薦や総合選抜の連中が令和では多数派なのだ。この推薦枠からの入った大学生は、ある意味、一般入試に臨む厳しい“関所”を経ていないものが大勢である。早稲田はこの方面を突き進んでもいる。文化の、サブカルの、大衆文化の牽引役としての早稲田大学は、“平成後半の遊園地”となってしまうだろう。これも時代の定めである、是非もない。

 この令和という時代は、SNS社会、デジタル社会の恩恵もあり、あの昭和の、早稲田出身の傑物を生むルートがなくなり、12才で、好きな方面だけに進む連中がいる。また、受験というルートを、好きなものを封印することもない連中が、歩むルートがある。前者の不毛なる自由の道、後者の不毛なる規律の道、その二道が、8~9割を占める現代日本社会になってしまっていることに警鐘を鳴らす者は、少数派である、いや皆無であろう。十代をどう過ごすべきかという、教育の本義を忘れて、社会のルールが教育の現場にも適用して当然だという、一種、教育のサービス業化という喩えが、それを露見してもいよう。
 時代は、日本だけでなく、グローバルの観点からも、任天堂、プレステのソニーの後塵を拝するゲーム青年を、ジブリやディズニーに憧れるアニメ少年を生むだけの環境になりつつある。これも、デジタルによる“人間の消滅”=M・フォーコーの文脈=という負の側面でもあろうか?



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