コラム
受験生と球児の精神構造の違い
小学生が一般的に中学受験をする際、将来の職業などは、まず封印し、行きたい中高一貫校を目指すものだ。そしてその希望の学校に入るや、将来の職業への意識が高まってもくる。この将来のルートという点で、よくアンケートによる調査で、小学生の将来就きたい職業という順位など、まったく参考にすらならい、どうでもいい調査とも言える。当然ここでの文脈は、中学受験をする小学校6年生を対象にしてのことである。これは一か月後の天気予報のようなものだ。これが、中学生のアンケートとなるや、数週間後の天気予報のようなアンケート調査ともなり、高校になれば、一週間後の天気予報とも準えることができる。
こうした人生の初期、いわば青春時代の、目的、目標、夢なんぞは、ちょっと難しい用語を用いれば、アリストテレス的に、形相(花・机)と質量(種・木材)とも言い得よう。勉強のできる公立小学生は、超進学校の生徒となる。その中の上層部の秀才以上の高校生は、旧7帝大か早慶へと進む。その学生たちは、一流企業社員か研究者となる。この階段的人生のステップアップを、形相と質量の関係とも言う。この文脈で以前「東大に入る一番の方法は何ですか?」と問われた林修氏が、「そんなの簡単だ、一番東大に合格している高校へ行けばいいだけのことだ!」と応じたのは当然の答えとも言い得る。
しかし、この令和の日本で、特に、中高生の将来なりたい職業とか人生の夢といったものがないという者が過半数を占めるという今日ではある。それに対して、進みたい大学への、憧れのイメージは、従来の昭和や平成とほとんど変わりはない。これは、男女と問わず、アイドルへ入れ込む感情と似たものがあり、漠然とした憧れ以外の何物でもない。ある意味、よく美男美女が結婚して、すぐ離婚するケースと同じである。よく言われる謂いだが、「東大までの人、東大からの人」という面で、結婚を恋愛の終着点と思っている夫婦と結婚を愛を築いてゆく始発点と考える夫婦の違いにも言い得て妙なのは得心がゆくであろう。これは、東大のみならず、一般の大学においても該当する。
こうした心理的現象は、秀才以上の小学生が、開成、麻布、桜蔭などに何が何でも入りたいという欲望が、6年の間に、ある意味人間的成長ができなかった者なのだが、そのまま延長線上に、東大、(旧)東工大、一橋への欲望へとドッキングしてもゆく。こうした悪しき心的慣例は、勉強ができるから、医学部へ、また、学校が奨めるから、東大へ、といった、短絡的、表層的モチベーションで高等教育に進む連中なのだ。こうしたメンタルは、大学生で、少しでもおじーちゃん、おばーちゃんが知っている有名企業へ入りたいとするMARCHレベルの一般大学生の心象風景にも一脈も二脈も相通じる真実なのである。
かつて耳にした、誰かは忘れたが、「大学4年生で就職活動する者は、4年間で自身のやりたいことが見つからなかった人間だ」という、皮肉めいた文脈で、一般大学のほとんどは、曖昧として、次の社会人の段階で、やりたりことが見つかるはずであるという、期待的妄念のようなものが精神を捉えて、一応、会社員となる。現代では、年功序列・終身雇用など死語になりかけている昨今、人口減少、経済低迷の状況下、若者は企業に入ってはみたものの、理想といえば大袈裟になるが、思い描いていた自己の未来像とは大きく齟齬が生じ、失望感をいだき、“3年以内で会社を辞める”{『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(城繁幸)}という実体を招来する平成後期以降の若者像ではある。
中学時代に野球が得意だった者、リトルリーグで活躍していた者、こうした連中は、高校球児となり、大阪桐蔭や横浜高校へと進み、その全員が、甲子園を目指す、いや、目指すどころではなく、甲子園優勝を視野にいれて猛特訓を積む。こうした球児の聖地甲子園で名を挙げた者(松坂大輔)、また、出場敵わず、プロのスカウトの目に留まった者(山本由伸)は、プロ野球の第二ステージへと進むのである。
ここで決定的に違う、開成高校の秀才とエリート球児の精神構造といったものを述べるとしょう。
通常は、鉄緑会の生みの親で、受験コンサルの超スぺシャリトでもある精神科医和田秀樹氏が、様々な書で語っているように、「勉強は対策で、要領で、満点を取る必要などなく、その大学の合格最低点を取れるを旨とすべし」、まず、その大学の問題と自己との客観分析から逆算し、その最低ラインを越える勉強をしさえすればいいといたものだ。これは、まさしく受験のテクニックであり、何らかの資格を取る手法とも相通じるものだ。
一方、当然、野球も対戦相手の高校をデータ分析し、そのチームを僅差で、できれば大差で勝つ戦術や戦略を抱きもしょう。しかし、これは、監督、コーチがするもので、高校球児自身は、実力として、社会人野球やプロ野球選手なみのスキルを身に付けようという気概がなければ、そのチームは勝てない。恐らくは、今プロ野球で活躍している選手は、メンタルはそういったものでもあっただろう。しかし、大学受験生には、大学受験の数Ⅰから数Ⅲまで、大学への数学やチート式を完璧に解ければ、理学部数学科の高等数学などまったく必要がないことからも明らかだろう。実は、このエリート高校球児と一般秀才受験生の、自己のスキル向上への動機付けというものの、差異、気概という側面が浮かび上がってもくる。
高校球児の練習は、やればやっただけ、プロに進んだ後の結果に露呈する。清原和博が一年目で、三割、30本のホームランを、松坂大輔が、一年目で最多勝を、実は、勿論、フィジカルの側面も、天賦の才も考慮しなければならないが、高校時代の、その鍛錬が、精進が、ものを言ったケースである。
ここで、その野球アスリートを、中等教育の勉強という次元で語ると、あの和田秀樹氏の言説は正しい。アスリートの練習を高校生の勉学に充てはめることは、不合理でさえある。では、一般高校生は、中等教育から高等教育へ進む際の最低限度の努力をする、その余力という面が大切になるのだ。興味の対象といおうか、勉学以外の特技といおうか、それを温存し、それを温め、大学時代に、それを開花する、秘めたエネルギーのようなもの抱懐しておくべきであるということなのだ。その自己の損得を超越した対象を、受験勉強で、母が赤子を抱くように、守り続けてゆかねばならないということでもある。その余力としての自己の好きなこと、自己のやりたいこと、これへの愛情・余力・執着といったものを受験勉強で摩滅、消滅させてはいけないということなのだ。勿論、こうした勉強以外に興味がない者は、当然、大学時代に遭遇する、湧き上がる、そうした学生は、幸運でもあるが、大方は、自身のやりたいことが見出されず、就活という最終段階に足を踏み入れて、社会に、何か“青い鳥”がいるような妄想を抱き社会人ともなる。
特に、理系エリート学生に関してなのだが、京大は当然、東大よりもノーベル賞受賞者が多いが、日本の二大都市東京と大阪の真ん中にある名古屋大学が、東大に比肩しても劣らぬ位に受賞者を輩出しているのは、以上で述べた私の考えからも容易に想像がつく。
こうした意味で、東大の二次試験の科目数の多さ,難度といったものが、どれほど、受験生自身の好きなこと、やりたいことを、皮肉めいて言わせていただくと、興味・関心のコアを摩滅消耗させてしまっているか。
芥川龍之介フリークの益川敏英は、英語が苦手で、数学が満点で、名古屋大学(院)に進んでいる。また、幕末の理系志士をも描いた司馬遼太郎は、数学が苦手で、高校(旧制高校)受験に、二度失敗している。この両氏の受験経歴に学ぶことは多い。天は二物を与えずとはこのことである。大谷翔平や角野隼斗を仰ぎ見てはいけない。これぞ、自己の才の分を弁える、汝自身を知るという格言の敷衍バージョンでもあろうか。
こうした人生の初期、いわば青春時代の、目的、目標、夢なんぞは、ちょっと難しい用語を用いれば、アリストテレス的に、形相(花・机)と質量(種・木材)とも言い得よう。勉強のできる公立小学生は、超進学校の生徒となる。その中の上層部の秀才以上の高校生は、旧7帝大か早慶へと進む。その学生たちは、一流企業社員か研究者となる。この階段的人生のステップアップを、形相と質量の関係とも言う。この文脈で以前「東大に入る一番の方法は何ですか?」と問われた林修氏が、「そんなの簡単だ、一番東大に合格している高校へ行けばいいだけのことだ!」と応じたのは当然の答えとも言い得る。
しかし、この令和の日本で、特に、中高生の将来なりたい職業とか人生の夢といったものがないという者が過半数を占めるという今日ではある。それに対して、進みたい大学への、憧れのイメージは、従来の昭和や平成とほとんど変わりはない。これは、男女と問わず、アイドルへ入れ込む感情と似たものがあり、漠然とした憧れ以外の何物でもない。ある意味、よく美男美女が結婚して、すぐ離婚するケースと同じである。よく言われる謂いだが、「東大までの人、東大からの人」という面で、結婚を恋愛の終着点と思っている夫婦と結婚を愛を築いてゆく始発点と考える夫婦の違いにも言い得て妙なのは得心がゆくであろう。これは、東大のみならず、一般の大学においても該当する。
こうした心理的現象は、秀才以上の小学生が、開成、麻布、桜蔭などに何が何でも入りたいという欲望が、6年の間に、ある意味人間的成長ができなかった者なのだが、そのまま延長線上に、東大、(旧)東工大、一橋への欲望へとドッキングしてもゆく。こうした悪しき心的慣例は、勉強ができるから、医学部へ、また、学校が奨めるから、東大へ、といった、短絡的、表層的モチベーションで高等教育に進む連中なのだ。こうしたメンタルは、大学生で、少しでもおじーちゃん、おばーちゃんが知っている有名企業へ入りたいとするMARCHレベルの一般大学生の心象風景にも一脈も二脈も相通じる真実なのである。
かつて耳にした、誰かは忘れたが、「大学4年生で就職活動する者は、4年間で自身のやりたいことが見つからなかった人間だ」という、皮肉めいた文脈で、一般大学のほとんどは、曖昧として、次の社会人の段階で、やりたりことが見つかるはずであるという、期待的妄念のようなものが精神を捉えて、一応、会社員となる。現代では、年功序列・終身雇用など死語になりかけている昨今、人口減少、経済低迷の状況下、若者は企業に入ってはみたものの、理想といえば大袈裟になるが、思い描いていた自己の未来像とは大きく齟齬が生じ、失望感をいだき、“3年以内で会社を辞める”{『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(城繁幸)}という実体を招来する平成後期以降の若者像ではある。
中学時代に野球が得意だった者、リトルリーグで活躍していた者、こうした連中は、高校球児となり、大阪桐蔭や横浜高校へと進み、その全員が、甲子園を目指す、いや、目指すどころではなく、甲子園優勝を視野にいれて猛特訓を積む。こうした球児の聖地甲子園で名を挙げた者(松坂大輔)、また、出場敵わず、プロのスカウトの目に留まった者(山本由伸)は、プロ野球の第二ステージへと進むのである。
ここで決定的に違う、開成高校の秀才とエリート球児の精神構造といったものを述べるとしょう。
通常は、鉄緑会の生みの親で、受験コンサルの超スぺシャリトでもある精神科医和田秀樹氏が、様々な書で語っているように、「勉強は対策で、要領で、満点を取る必要などなく、その大学の合格最低点を取れるを旨とすべし」、まず、その大学の問題と自己との客観分析から逆算し、その最低ラインを越える勉強をしさえすればいいといたものだ。これは、まさしく受験のテクニックであり、何らかの資格を取る手法とも相通じるものだ。
一方、当然、野球も対戦相手の高校をデータ分析し、そのチームを僅差で、できれば大差で勝つ戦術や戦略を抱きもしょう。しかし、これは、監督、コーチがするもので、高校球児自身は、実力として、社会人野球やプロ野球選手なみのスキルを身に付けようという気概がなければ、そのチームは勝てない。恐らくは、今プロ野球で活躍している選手は、メンタルはそういったものでもあっただろう。しかし、大学受験生には、大学受験の数Ⅰから数Ⅲまで、大学への数学やチート式を完璧に解ければ、理学部数学科の高等数学などまったく必要がないことからも明らかだろう。実は、このエリート高校球児と一般秀才受験生の、自己のスキル向上への動機付けというものの、差異、気概という側面が浮かび上がってもくる。
高校球児の練習は、やればやっただけ、プロに進んだ後の結果に露呈する。清原和博が一年目で、三割、30本のホームランを、松坂大輔が、一年目で最多勝を、実は、勿論、フィジカルの側面も、天賦の才も考慮しなければならないが、高校時代の、その鍛錬が、精進が、ものを言ったケースである。
ここで、その野球アスリートを、中等教育の勉強という次元で語ると、あの和田秀樹氏の言説は正しい。アスリートの練習を高校生の勉学に充てはめることは、不合理でさえある。では、一般高校生は、中等教育から高等教育へ進む際の最低限度の努力をする、その余力という面が大切になるのだ。興味の対象といおうか、勉学以外の特技といおうか、それを温存し、それを温め、大学時代に、それを開花する、秘めたエネルギーのようなもの抱懐しておくべきであるということなのだ。その自己の損得を超越した対象を、受験勉強で、母が赤子を抱くように、守り続けてゆかねばならないということでもある。その余力としての自己の好きなこと、自己のやりたいこと、これへの愛情・余力・執着といったものを受験勉強で摩滅、消滅させてはいけないということなのだ。勿論、こうした勉強以外に興味がない者は、当然、大学時代に遭遇する、湧き上がる、そうした学生は、幸運でもあるが、大方は、自身のやりたいことが見出されず、就活という最終段階に足を踏み入れて、社会に、何か“青い鳥”がいるような妄想を抱き社会人ともなる。
特に、理系エリート学生に関してなのだが、京大は当然、東大よりもノーベル賞受賞者が多いが、日本の二大都市東京と大阪の真ん中にある名古屋大学が、東大に比肩しても劣らぬ位に受賞者を輩出しているのは、以上で述べた私の考えからも容易に想像がつく。
こうした意味で、東大の二次試験の科目数の多さ,難度といったものが、どれほど、受験生自身の好きなこと、やりたいことを、皮肉めいて言わせていただくと、興味・関心のコアを摩滅消耗させてしまっているか。
芥川龍之介フリークの益川敏英は、英語が苦手で、数学が満点で、名古屋大学(院)に進んでいる。また、幕末の理系志士をも描いた司馬遼太郎は、数学が苦手で、高校(旧制高校)受験に、二度失敗している。この両氏の受験経歴に学ぶことは多い。天は二物を与えずとはこのことである。大谷翔平や角野隼斗を仰ぎ見てはいけない。これぞ、自己の才の分を弁える、汝自身を知るという格言の敷衍バージョンでもあろうか。