コラム
"和して同ぜず"という事
和して同ぜず
今般の総選挙、高市自民党の超圧勝であった。その最大の理由の一つが、「天子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(論語)に尽きよう。自民党は、選挙においてなのだが、天子でもあり、立憲民主党は、小人でもあったというに過ぎぬ。形勢では西軍が有利とされた関ヶ原でいざ戦ってみれば東軍の圧勝でもあった状況に酷似している。短期決戦という点では、桶狭間の戦いをも彷彿とさせる。
令和の時代、社会人は、終身雇用、年功序列などが夢物語となり、天職サイト花盛りの昨今、働き方として、従来のメンバーシップ型からジョブ型へとシフトしてもいると、アカデミズの方々から、実社会の変貌を声高に主張し、警鐘をならし、それに玉突き状態か、政府が、一般サラリーマンに、リスキリングの推奨を唱道してもいる。SNS社会・AI近未来への、<デジタル奴隷>を輩出する政策とも見方によってはいいうる現実なのだ。
こうした令和の時代、時代の変革に、一社会人も、いち早く適応し、蛇の脱皮ではないが、日々自己のスキルなり、能力なりをリニュアルすべきであるとする、風評的言説が、大衆を洗脳している嫌いがなくもない。こうした時代の変化への対応は、太古の昔、いや、人類発祥以前の生物の進化の時点でも、自然の摂理として、正しい事実とされてきた。
「脱皮しない蛇は破滅する。人間もまったく同じだ。」(ニーチェ)
これは、“言うは易し、行うは難し”という、ある意味で、生物の悲しい性・習慣・習性でもあろうか。ダーウィンの自然淘汰からピラミッドに刻まれた“今時の若いモンは!”という老人の愚痴に、そして、ダイエーやシャープといった大企業にまで適応できる箴言ではある。これを地味に、さりげなく実践している老舗名店である。それが、不易流行、“変わらないために変わり続ける”というコンセプトなのである。
ここででありますが、こうした、時代への自己の脱皮、いわゆる、リスキリンなる流行、それが主流になりかけている現実というものに、私としては、違和感、いや、異議を申し立てをしたいのであります。それは、どういうことかと言えば、そうした、時代の大きなうねり、社会の大きな風、そうしたものに迎合するは、烏合の衆の個人がうごめいているレッドオーシャンに、船を乗り出す、愚者の発想でもあるということなのです。私がいいたいのは、ブルーオーシャンの、言い換えると、傍流の生き方(大衆が気づかないニッチ)、異端の流儀(大衆が目もくれない死角)でもあります。中年以降の人生とは、外に流儀のベクトルを求めるのではなく、内に流儀のベクトルを向ける、自己の流儀に拘泥し、それを徹底的に鍛錬し、深化してゆくことだと言いたいのであります。
70代以上の作家では、今も手書きで原稿を埋めてゆく文豪がいるし、50代以上の作家では、現在もワープロで文章を書く中堅作家もいましょう。彼らは、自身の文章のリズム、思考の波長、そうしたものが、邪魔されない、自然であるがゆえ、20代に始めた手法に拘泥してもいるわけです。出版社の編集者は、そうした流儀には、一切横やりは入れません。どれだけ自己の生産性にマッチした手法がベター、ベストなのか、それを貫いてもいるのです。私は、今でも弊塾の教材プリント作りは、ワープロを使用しています。
一般大学生は、就職すれば、自己のアイデンティティは、会社員、サラリーマン、ビジネスマンとして、大方自覚されることでしょう。つまり、月並みな表現ですが、学生と会社員との違いは、「お金を払って学ぶ、知識や技能を身に付ける」「働いて、お金をもらう」と言われる所以です。この後者は、意地悪な言い方をすれば、「自分の人生の時間を犠牲にしてその代価(給与)もらう」とも言われます。そこには、自己の様々な成長は二の次にされがちです。この文脈で、まるで、働いて、働いて、自身のどこでも通用するスキルが身につかないと悟るや、学生はその企業を数年で辞めてしまう現実が、昨今の日本では散見されます。そうしたものが、主要な原因であるのです。働いても、自身が、技能的、人間的に成長していないと、いつかこの会社からおはらい箱になった時、30代、40代で路頭に迷うという、“年金などもらえない的不安”に酷似した、心理的危機感が、退職へと駆り立てる最大の要因なのです。会社は、自分を守ってはくれないとう覚醒が、年功序列と終身雇用の終焉として、明治初期の秩禄処分により路頭に迷う元武士階級の身分を想像させもする。元武士階級で、渋沢栄一や岩崎弥太郎など、実業界で成功する者など一握りである。現代も同様です。世知辛いご時世は、似ています。令和の大学生が、就活ではなく、スタートアップ企業を目指す者のメンタルが、野生の人間か、家畜(社畜)の人間かのメルクマールともなるのです。鈴木敏文が、かつて、「現代は、危険を冒さないことが、最大の危険だ!」と語った最大のビジネス的嗅覚、直観がそうした時代的状況をサバイバルもさせてくれる<保障>ともいえましょう。この点で、選挙という戦における決断が、その覚悟が、高市と石破にクッキリと顕れた。政治家としての資質の違いである。
これは、私のセブン&アイに、バブル時代の末期に就職した際の、新入社員の名簿に、写真付きで、自己の抱負(アピールポイント)欄に記載した文言です。その名簿は、今も手元にあります。
「一会社員、一サラリーマンであるより、一商人(あきんど)でありたい」
この言葉は、実は山下達郎の弁を私流にアレンジしたものです。
「一アーチストであるより、一アルチザンでありたい」(山下達郎)という、当時、ニューミュージックという用語が用いられ始めた頃から、歌手やグループなどが、ミュージシャンという言葉を通り越して、アーティストと言われ始めた頃でもある。達郎は、その呼ばれ方に違和感、嫌悪感を抱いており、自身をアルチザンと自覚しての意義申し立てでもあったのです。因に、30年以上前のアルバムのタイトルが『アルチザン』というものがあります。
「ぼくはね、世に認知されている芸術家とされている人たちよりも、むしろ、そろばん作って何十年とか、箱根細工を作って何十年とか、無名性っていうのかな、世の中の誰が作ったのかなど分からなくても、その作品が生活と結びついて、一種芸術の域にまで達しているような、誰も真似できないような仕事をしている職人といった人たちに共感を覚えるの」弊著『ポップスの規矩』より
これは、まさしく柳宗悦の“民藝の精神”そのものである。こうした達郎の精神は、彼の名曲『蒼氓』の題名にもにじみ出ている。
こうした、私や山下達郎の弁は、永六輔の岩波新書、『商人』や『職人』の中に、そのエッセンスが集約さてもいます。
ここで本題に戻ります。世のサラリーマン連中は、おまけで大学生気質も同類ですが、次の様な崇高な心構えがないような気がします。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(論語)
一般の大学生は、その企業に入るや、その気風や理念に染まってもゆきます。人気企業の伊藤忠、リクルート、ソニーなど、その社風に憧れる、染まりたい、それが故に、人気企業たりえてもいる。その関係性は、高校生とブランド大学にも言えるやもしれません。また、途上国の国民が、アメリカに、イギリスに、フランスに、移住したがる民族性も同じでありましょう。ロシアや中国に移住したいと思うアフリカの人々は皆無であります。そうした国に移民すれは、自分が社畜ならぬ国畜となる運命がわかっているからです。以上の人気企業の推進役となった成功会社員は、大方独立して、その道で大成している者が多い。一方、大企業で、リストラ社員を1000名応募すると、その会社には舐めて欲しい人間は応募せず、とどまって欲しい人材に限り応募してくるという皮肉な現実は、頓に有名でありましょう。
ここにも、「国を支えて、国を頼らず」という福沢諭吉の独立自尊の理念が透けてみえてきます。そこには、傍流・異端を恐れない精神という血脈が流れてもいる。真のエリートとは、このスピリッツ持つか否かなのです。福澤は、経済閥で、それを実現し、大隈は、政治閥でそれを実現しようとしたに過ぎません。ここに、帝大とは、一線を画す、むしろ異質の、私学のレゾンデートル(存在理由)があるのです
大学生から、一般会社員になった社会人に対して、運命の心的態度の分岐点、それは、自分を、文系(商社やサービス業)の者なら、商人(あきんど)であると、理系(メーカー)の者なら、職人(しょくにん)を、それを自覚するか否かにあると申しあげたいのです。では、次回、この観点から、4~50代のサラリーマンにとって、こうしたスピリッツというものの流れからして、リスキリングなるものを不要とするか否かを論じてみたい。(つづく)