コラム

リスキリングで自己の律を失うことなかれ

 コロナ禍の最盛期、あの志村けんが亡くなり、日本中がコロナの恐怖の坩堝に落ちた頃、いわば、塾や予備校、当然学校もなのだが、オンライン授業が大勢を占め始めた頃、弊塾に、様々な機具メーカーから、リモート授業の機具の営業の勧誘が数回あった。非接触、間接、映像による授業のためのツールの勧誘である。これに対して、私は、何度もお断りの返事をした。コロナ禍で、辞めていった生徒は、全体の2割強はいたかと思う。残りの8割は在籍して、そのまま弊塾のリアル授業をうけてくれたことになる。その残った生徒に対して、「もし、英精塾も、リモート授業にしたらどうですか?」と質問したら、ほぼ全員が「辞めます」と応じてきた。ああ、彼らは、令和の初め、デジタルやオンラインによる授業には、微かな不満、拒否反応、生の黒板とチークの説明・解説を、鉛筆とキャンパスノートに書き写すリアルの授業に覚醒している生徒なんだなと、改めて実感したし、授業の手法を、国難ともいえる数年間で、変えなくてよかったと思い出されてもくる。いや、その対面授業で、生徒が辞めていって、営業が成り立たなくなったら、まあ、それまでのこと、塾をたたむ覚悟でもいた。それほど、対面授業というものへの執着、拘り、固執というものが、自己をデジタルへと差し向けもしななかったのである。

 こうしたメンタルは、何十年と続く、鮨の名店の大将が、時代は、ハイテクで、AI機能を内蔵した、ロボットで、人間に劣らぬ位に上手にすしが握れるから、それを導入する誘いを拒否するメンタルと似たものがある。

 堀江貴文の説でもある、寿司職人になるには、10年も修業はいらない、半年で寿司学校で魚の見極め方、捌き方、握り方など、寿司職人としてのエッセンスを学べば用足りるという説、また、フランス料理は、何十年もフランスの星付きレストランで何件も修業をするより、辻料理学校で二年学べば十分とする説、こういった発想は、無駄を省く、不要の要を否定する、合理主義的発想でもあろう。これが、料理界のみならず、教育界にも波及している現実は、どうしようもない。こうした風潮の根底には、暗黙知という、数値化できない、エビデンス第一主義の思想、それは、科学的根拠とやらかもしれないが、そうしたネオ合理主義といったものが、時代を支配しているからである。

 このネオ合理主義とやらの正体は、対象、それは、料理や衣服、初等・中等教育でもいいのだが、それと生の人間、客や生徒との間に、デジタルというものが介在してくるという実態なのだ。実は、この介在者としての、サラリーマン・教師・講師といったものたちが、デジタルの歯車になっている毛色が強ければ強いほど、学び直しというレスキリング思考に染まりやすいということでもある。

 まあ、40代くらいまでは、時代に合わせられる知識や感性などは微調整もつく、身体同様に、無理も効くということだ。しかし、アラフィフくらいになると、心理的・生理的に“今の若いモンは!今の時代は!”といった愚痴や不満が内面から沸き上がる。これを、無理やり解消させる、そして、無理で不自然な{深層心理で、好きでもないことを無理やり騙し騙ししながら学び直しとするメンタル}リスキリングに励むことになる。これはこれで、個人個人に、身体的な若さやメンタルが違うことを考えれば、十人十色と異議を挟むつもりは毛頭ない。あの加山雄三が、80近くまで、孫とテレビゲームをやって勝つなどと言う気質・才能は、ある意味、彼の肉体同様に、ギフティッドでもあるということだ。実は、世の社会人の大方は、こうしたデジタル親和性を有するおやじを観て、おれもそうならなければと、無理に、表層的自己が、深層的自己を洗脳してしまう状況なのだ。この意識、有名予備校や東大生の勉強手法を、そのまま鵜呑みにして、資質や能力(IQ)が違うにもかかわらず、単純明解に自己に採用する愚行とも似ている。
 こうした、深層自己とは、30代くらいまでに確立して、習慣・習性で、どうしようもない自己の心的アイデンティティでもあるということだ。

 明治維新の立役者は、天保からせいぜい安政期間に生まれた者が多い。彼らは、半分以上は、青春時代に、江戸の風俗習慣の中で人格などが陶冶されてもきた。その彼らが、存命であった、日露戦争直後くらいまでは、明治政府の近代化への重し、いわゆる、警戒感や慎重さに裏打ちされたブレーキ的役割を果たしてもいた。それが、元老という、明治天皇の相談役でもあり、欠陥だらけの日本帝国憲法の条項・条文を穴を埋めてもいた存在なのだ。彼らがいなくなった大正デモクラシーの、特に、第一次大戦後、日本がおかしくなってもゆき、昭和の初期、軍国主義という鬼っ子を生む羽目にもなったのである。 
 これは、歴史上の比喩ではなく、人間のたかだか、80年という年月にも、まさしく言い得て妙だと確信するのである。

 人間、丁度、40代、戦前の大正時代後半ともいいっていいのだが、それまでの、自己の内面の“明治の元勲”を放逐、追放などしてはいけないという警鐘を、リスキリングというお題目が忘れさせてしまう危険性を孕むということなのだ。昭和の軍部の、1931年の満州事変から1937年の日中戦争にいたる、最大の張本人は、みな明治生まれの軍人でもあった。明治元年(1969年)生まれの偉人たち{漱石・熊楠など}が、警鐘を鳴らしてもいた、歪な日本の近代化というものの行く末の悲劇である。これは、一つの説だが、昭和の初め芥川龍之介が自殺した「ぼんやりとした不安」という言葉、その遠因いうものは、師漱石が予言した、『三四郎』の中の有名なやり取りが予言してもいた。

 「(日露戦争後)しかしこれからは日本もだんだんと発展するでしょう」…三四郎
 「滅びるね」…広田先生
 
 軽率に、自らの、表層的自己ならまだしも、深層の自己までも、超デジタル化する、いはば、生活のため、給料のため、リスキリングするは、自己のアイデンティティの破滅すら招く行為である。角を矯めて牛を殺すという真実に気づくべきであります。社会人としては、そこそこに幸せでも、生活者として鬱の溜まる不幸な人生ともなってしまうものです。根っからのデジタル人間には、横やりはいれません。デジタルネイティヴはいいのです。デジタルイミグラント族で、リスキリングで自己の核ともなる人格までも無化してしまう人間に対して言いたいことなのです。

 これを、人間の一生に準えれば、前半生の、知恵、経験などをすべてまさぐり捨てるは、これは、昭和20年までの日本の運命と同じ人生になりかけないという点でも、安易で、収入面考慮の、短絡的、時代迎合的リスキリングなど、するものではないと私は言いたいのであります。
 最近の新聞でも報じられていました。

 文理融合、将来の融合目指す 2040年に生徒数半々に 文科省方針~2026年2月13日 朝日新聞より~

 これなんぞは、徴兵制復活ならぬ、徴“理生”制採用の教育方針と、私の目に映ってもきます。こういう方針以前に、英語でもなく、情報でもなく、プログラミンでもなく、中高の数学の授業の充実、そして、コマ数の増加、数学教師の質の向上、これこそが国家の土台骨を支える若者の増産ともなる賢明策とも思えるのですが、如何でありましょうか?

 日本の高校の半数以上は、理系にする方針なども、十代からの、ファッショ的リスキリングとも申せましょう。「すぐに役立つものは、すぐに役にたたなくなる」(小泉信三)では、ありませんが、スマホの機種の買変えやファーストファッションの生活スタイルが、学びや思考にまでも影響を与えてきている現象は、実は、このリスキリング風潮に典型的に表れてもいるのです。(つづく)



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