コラム

佐藤優氏による日本語講義の大切さ

 母校の同志社大学神学部から客員教授の肩書をもらい、後輩に神学を教えるようになった。
 それから、さまざまな大学の教師や学生と話す機会が増えた。現在、あちこちの大学が行っている英語を母語としない日本人教師が、英語に堪能でない学生に専門科目を英語で講義するという滑稽な事態に、即刻、終止符を打った方がいい。
 日本語で情報を伝達する場合と比較して、教師は三割程度しか情報を伝えられない。学生の理解度は、日本語と比較して二割だ。両者を掛け算すると日本語で講義するのと比べて、6%しか情報が伝わっていない。
 一部のアジア諸国や中東諸国で専門科目を英語で講義するのは、学問の概念や術後を自国言語に翻訳することができていないからだ。日本人は欧米の学問を土着化させ、日本語で専門科目の講義をできていることに誇りを持つべきだ。英語授業は教育水準の低下を招く亡国の政策だ。英語については、別途、専門コースを作ればいい。
 同志社大学神学部には英語に堪能で、米国で顎位を取った教授が何人もいる。英語が上手な人ほど、日本語での講義を重視する。明治期に同志社が開校されたときは、専門科目は英語で教えられていたが、三十年かけて学問を土着化させて、日本語での講義を可能にした。この伝統を守りたい。
 東京新聞 本音のコラム 佐藤優 2016・9・23からの引用
 
 大学創建以来の理念、また、ミッション系といった伝統、これらを加味した時、ICUのリベラルアーツ系大学{※ICUは、法学や経済学といった学部は存在しない、アメリカのアイビーリーグを真似た一般教養を学ぶ大学である}や帰国子女枠とほぼ同列の学部を有する上智大学ならまだしも、また、東北の僻地、それも全寮制で、一般の日本語空間と遮断された高等教育機関でもある秋田県立国際教養大学ならぎりぎり可としよう。周囲のキャンパス棟が、政治経済・法学部・文学部など、ほとんどが日本人学生がひしめく空間、それも新宿や高田馬場といった繁華街の近くで、早稲田国際教養学部なる、SILSとも称する学部を、三分の一が、純ジャパの学生を、三分の二がネイティブ・帰国子女の集団にぶち込んで、その少数派の知的レベルがどれほど上昇するものであろうか。英語能力は長足の進歩はするであろう(?)が、知的能力が短足の進歩となりやしないか?アジアはもちろん、欧米からの留学生が、リベラルアーツをわざわざ日本に留学してまで学ぶ、その本意・意義、また学生の資質・能力といったものがどれほどのものであるのか、また、アメリカからわざわざ日本の大学にリベラルアーツを英語で教えるために来日するネイティブ教師(講師・教授)のレベルといったものがどの程度のものなのか、はなはだ疑問を投じざるをないというのが正直な感想でもある。
 先日亡くなられた評論家竹村健一が広めた文化的コピー「世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識」、これには、プラスの面とマイナスの面が潜在する。その文化には他者(他国)と比較した場合、必ず、個人(生徒・子供)と同様にそうした負の側面・正(※益)の側面とはコインの裏表の如く必ず付きまとうものである。ことが日本の文化ということともなれば、遣唐使以来、翻訳文化の伝統というものがあり、外国の文化文明を換骨脱胎して、独自の日本社会というものを築き上げてきた歴史がある。世界一の翻訳大国であるのは余りに有名です。「世界の名著や流行のベストセラーを読みたければ、英語以外なら、まず日本語を学べ」というアジア諸国の学生の言い習わしがあるそうです。どんな言語の書籍でも世界で話題になれば、娯楽系はもちろん知的系に至るまで、早くて1年未満、遅くても数年以内に日本語に翻訳されるからである。早川ミステリーなどは、世界一のミステリー叢書と呼んでもよいかと思われます。卑近な例を持ち出すまでもなく、歌謡曲・和製ポップス・アニソンに至るまでこれも、ある意味、音楽の“翻訳”文化の証明でもあります。その“オリジナリティー”は世界に逆配信しているほどです。
 そうした日本文化の知的構築の土壌が、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字といった世界でも稀有なる複合言語空間なのです。これこそが、日本の学問(科学)を豊饒なるものへと導いてもきたのです。端折って言いますが、この稀有なる言語風土こそが、アジアで断トツのノーベル賞受賞者を輩出してもきたのです。これぞ、“日本語は世界の非常識”の正(※益)の側面でもあります。この言語風土をすっかり改める大学改革をしようとしているのが、早稲田大学でもあります。グローバル化を錦の御旗として、日本で最も多い留学生を受け入れ、TOEFLやTOEICを義務付ける学部や学科が増えている事実、学長自身、大学の世界ランキングを意識している方針なんぞは、その表れでもありましょう。日本の大学の“正(※益)の非常識”を世界基準で、常識へと舵切りしているようにも見えます。それが果たして、正解とでるのかは疑問でもあります。それは、早稲田の方針で、将来推薦・AO枠の学生を6割にまで上げる方針とも通底しているからです。これは、現在の日本の高校生の<高校の授業で学ぶ学力への性善説>と思えてならないからです。私は、現場で高校生に直に接しているのですが、高校の推薦やAOなんぞのルートで大学生になった者の知的レベルなんかは全く信用してはいない部族であるからです。その点、慶應大学は、センター試験から新テストにかけての不参加の方針にしろ、推薦系入学者の数も従来通りである姿勢、いわば、<高校生の学力性悪説>に立っています。
 日本の文化的風土の温床は、言語のみではありません。男系による万世一系の天皇制はもちろん、世界で唯一残存している元号制(昭和・平成・令和)をも同義であります。こうした政治制度的文化風土も実は、日本人の気質に意識・無意識にかかわらず相当影響を及ぼしているのは、様々な学者や評論家が指摘している通りであります。
 日本という国は、日本語という母語による学問の土着化が成功している国なのです。これは、ある意味欧米人からすると異様・奇異にさえ見えるものです。これを、矜持するのではなく、自虐的に愚かにも改革しようとする急先鋒が早稲田大学なのです。
 文化からサブカルまで、1980年代末まで早稲田大学が圧倒的存在でした。バブルの終焉と同時に、SFCが1990年に創設され、2000年代初期まで、SFCの人気・偏差値バブルが続き、その影響もあってか、上智には総合グローバル学科やら、早稲田にはSILSが、また日本中には、“総合政策”やら“環境情報”を真似た4文字学部が、雨後の竹の子の如きに設置され始め、今では、政治も経済も文学も教育も興味ない学生を集客する看板ともなっている、“一応大学で好きなこと”ができる印象・イメージを与える早稲田の文化構想学部など、その典型でもありましょう。
 戦後昭和の時代、戦前の旧制高校のシステムが懐かしがられ、また再評価されたように、令和の時代、昭和末期の共通一次、平成のセンター試験が、回顧され、国力や民度が下降線を辿り始めた時、まるで、ゆとり教育の反動と相似するかのように、見直される時機が必ずやってくることを私は予言します。
 英精塾の理念でもある、三本柱、
 
 ①文科省からの指導とは真逆のことをやる!
 ②教科書から遠く離れて、教科書をある意味無視して教授する!
 ③国の方針など一切考慮せず、科目を教える!
 
 これと似たような方針で、従来の大学入試制度を堅持している大学が、慶應大学でもあります。入試制度の<独立自尊>を貫いて姿勢が、早稲田大学と真逆でもあります。
 大学のグローバル化、使える英語主義によるキャンパス内での英語講義優先、学生へのTOEFL・TOEICの義務化、AO・推薦枠による学生6割目指す方針、世界の大学のランキングを意識している姿勢など、外部基準{※政府や民間企業}を強烈に意識している早稲田大学が、破竹の勢いの戦前の枢軸国{ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリア}に迎合し、手を結んだ大日本帝国にダブって見えてなりません。戦前の陸軍が、早稲田に、海軍が慶應にイメージがかぶってしまうのは、私の妄想でありましょうか?

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