コラム

音読という名の教えない授業

 今や、学校という、また、塾・予備校という<中等教育という世間>で流行るもの、それは知る人ぞ知る音読というものです。これは、10年以上前から「声に出して読みたい日本語」(明治大学教授斉藤孝氏)でブームとなり、それが今では、英語教育界で、音読超ブームが到来しています。その闇雲の、苛烈なまでの音読授業をやり玉に挙げたいのです。
 弊塾の生徒に質問などで、学校の授業スタイルなどを聞き質すのですが、もう、5人(5校)に4人(4校)の割合で、授業で音読が奨励され、さらにまた、そうした学校の中には、授業50分のうちほとんどが音読に費やされている学校すらあります。
 こうした音読奨励校の英語授業スタイルを精査致しますと、つまり、生徒からその授業の内容構成{文法・読解・作文・発音など}がどう行われているのかを詳らかに聞き入ってみますと、そうした、特に文法など大雑把に、雑駁に、「教科書に、書いてありますよね、見ればわかりますね?では、右ページの演習をやってみましょう」的、まず、その学校の、自身の担当するクラスが、それぞれの生徒がどのレベルの英語の実力(本当に文法が分かっているのか否か:具体的に言えば、英検3級は持っていても、そのレベルの英文を和訳できない、作文できないといった実態です)なのかも認識・把握もせず、「みなさん、音読は大切ですよ、さあ、皆さんテキストを音読しましょう」「来週までに、この英文を音読し、暗唱してきてくださいね」など、ある意味、英語授業の<講義放棄>現象、手抜き授業が現場で起こっているということです。
 生徒達は、文法的に、曖昧な、なんとなくしか理解していない英文を、まるで般若心経を暗記するが如くに、いや、意味内容はだいたい解っていても、どうして英語から日本語へ文法というツールを使い、そういった意味になるのかも分からないままで、その英文、例文、教科書の或る箇所を音読する、その愚策教育が現場で行われているということです。
 私自身、個人的に、年に数回、大型書店の教育専門書コーナーに足を運ぶことがあります。その書棚の本の背表紙の文字に「教えない授業」という言葉が付された、教師向けの教育専門書が、非常に目に付きます。これは、教育界の風潮、趨勢で、丸暗記・詰め込み教育、ペーパー試験などは、悪とされ、ゆとり教育の残滓、傍流として、澎湃と沸き起こった、自主性な、生徒の興味・関心をひく授業、それのある意味、成れの果てでもある、アクティブ・ラーニングという化け物がいびつな形で、進化を遂げて、教育界で市民権を得てきたのです。そのアクティブ・ラーニングに名を借りた、「教えない授業」という言葉が、葵の御門の印籠の如くに、現在、教師の質の低下・ブラック職場・少子化・塾歴社会・モンペの出現など複合的要因も追い風ともなり、教育の責任放棄とも、半世紀前なら批判された手抜き授業が、公立はもちろん私立学校中でも幅を利かせている有様です。
 私の個人的体験で、申し上げると、中学や高校の国語の授業で、生徒を指名し、立たせた状態で、その教科書の小説なり評論を音読させる行為など、小学生ならいざ知らず、中等教育の現代文の授業で、古文や漢文ならまだしも、そうしたことを実践させるなど、教師にとっての怠慢授業・手抜き授業以外の何ものでもないと申しておきましょう。英語とて、同じです。ただでさえ、時間が不足する英語の授業を、ただ音読で費やすなどは、愚の骨頂以外の何ものでもないと断言できます。
 実力がない教師、教え方が分からない教師には、この音読授業は自身の実力をカムフラージュするには絶好の隠れ蓑でもあるのです。英語の本質を生徒に教えられない教師と英語を前向きに学ぶ意志がない生徒・出来の悪い生徒との生温い恰好の、非学びの時間・空間、妥協の産物であるのが、大方の学校で行われている音読授業の実態です。
 なぜこれほど、現今の音読授業を批判するのか、それは、道徳の授業やマナー・エチケット教育と同じことが、この音読授業には該当するからです。
 公立小学校や中学校の生徒の6人に1人は、相対的貧困にあると言います。さらに、申し上げれば、6人に2人は、学校以外に塾や好きな習い事にも通えない生徒がいると推測されます。また、その6人に2人は夫婦共稼ぎで、なんとか、母親のパートなどで、教育費をまかなっている家庭であるとも想像がつきます。
 「衣食足りて礼節を知る」ではありませんが、「塾費用足りて学校授業について行ける」という現実を、さらに英語に拡大解釈すれば、「文法足りて音読生きる」と断言しても宜しかろうと思うのです。
 Tハイスクールのカリスマ講師Y氏やらI氏やらが、やたらと<音読教>の普及に熱心です。しかし、私に言わせれば、彼らがどれほど高度な英文法の授業を高校生に対して行っているか、また、どれほど、高度な文法書や参考書を出しているか。オバマの演説や京大の英文を一点の曇りもなく、授業で解説・説明して、またそうしたレベルの参考書などを書いてから、音読推奨なら理解もできますが、Y氏などは、「英文法は高校2年レベルでオッケーだ、細かい文法、小難し文法などにこだわらず、意味はだいたいの理解で、あとはさあ音読だ!」とふれ回ってもいますが、現場生徒、IQ100前後の標準的な高校生には、「こいつ何言っての?英文の明解な説明もないままに、いや、いい加減に、あとは音読だ!だと、冗談もいい加減にしろ!」と教え子の発言です。このカリスマ講師の縮図バージョンとして、中学高校の現場教師は、これと同じ流儀で授業をしているというのが、正直な感想です。
 ブラック職場で教材研究などの時間がない、補助プリントなど作成する暇がない、またそうした実力がない教師が激増している中で、この教えない授業の典型でもある音読授業は、助けに船なのです。ヴェテラン教師が不足する教育現場で、i-Padやらデジタル教材を文科省が支給してお茶を濁す政策と同じ物を感じます。
 塾業界とて同じであります。今やフランチャイズで勢力拡大している武田塾などは、脱サラ社会人、就活失敗組大学生などが加盟して、<教えない塾>という、異色で、キャッチーな宣伝文句「教えない塾」として名前が広まっています。ビリギャルで有名になった坪田塾とて、準教えない塾、いわば、生徒をやる気にさせて、課題の問題集を与え、分からない所、不明な箇所を先生に質問にくる形式程度の家庭教師的塾でもあるのです。この坪田塾など、世間一般の個別指導塾など、四捨五入すれば、教えない塾に等しい範疇に入ります。
 学校のみならず、教育産業でも、<生徒の自主性>という大義名分、<教育上絶対的不文律>の下、教えない教育が、手抜きとは感じられない空気を作り上げ、地球温暖化と同様に、<生温い“いい加減な”教授法>として、日本の少子化とデジタル化社会と“できない教師”が混在する中、日本の学問・科学(大学)の基礎基盤でもある中等教育を蝕み始めているのです。

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