コラム

「初め良ければすべて良し」という気風

 「終わり良ければ総て良し」(シェークスピア)という格言があります。これを捩って「初め良ければ総て良し」という私的“格言”を提言してみたいと思います。
  それは、日本社会に行き渡っている空気、また、気質のような風土に当てはまる“歴史”的法則であります。
 歴史を紐解くと、明智光秀の<本能寺の変>、東条内閣の<真珠湾攻撃>、しかりであります。端緒は、“成功”に見える劇的な事件でありました。しかし、その後、尻つぼみ的に、悲劇へと突き進んで行く光景は、滑稽ですらあり、喜劇をうちに秘めた悲劇でもありました。こうした、その場の思い付き的、長期的戦略なしに、物事を運ぼうとするのが、ある意味で、日本人のリーダーの発想でもあったのです。
 
 では、その法則を近年の事例に当てはめてみたいと思います。第二次安倍内閣で起こった事柄を指摘しますと、金融緩和政策、金利ゼロによる、即ち、<黒田バズーカ>であります。いわゆる、国が、日本株のほとんどを買い上げ、株価を釣り上げている政策です。今現在株価は2万数千円を維持してはいますが、安倍首相が退陣し、黒田日銀総裁が辞めた後の株価は、確実に2万円を切り、1万数千円台になると指摘するエコノミストもいるほどです。安倍のミックスが成功しているのは幻想に過ぎないことは、国民にその経済的恩恵が実感されていないこと、大企業の内部留保だけが膨らみ、その社員に給与のべースアップで還元されていない事態からも明白であります。これがデフレから脱却できない最大の要因です。いわば、経済のグローバル化で、国際的な経済格差を、輸入しているようなものです。昭和初期の、浜口内閣における、井上準之助日銀総裁による金解禁で、世界恐慌というビールスを、吸い込んでしまい昭和恐慌という重篤の病となってしまい、結局は軍部の台頭(癌の発病)を招いてしまった光景を思い出してしまうのです。
 
 二番目には、オリンピックの招致です。コンパクトで、お金の掛からないオリンピックをキャッチフレーズに誘致に成功したものの、その後、国立競技場の建て替え問題で、ひと悶着あり、予定(見積もり)の予算よりも膨大な金がかかる実態が明るみになり、最近では、マラソン競技会場が、札幌に変更する羽目にもなった。IOCの言いなりで、何も反論できない惨めなJOCであります。東京都では、暑さ対策で、コースのミスト設備や路面の整備など数百億もの税金を使いながら無駄になってしまった実態は多くの国民が知るところです。
 
 では、最後になりますが、大学入試改革であります。“戦後最大の大学入試改革”を謳い文句に、第二次安倍政権のもと、下村博文元文科大臣の主導のもと、大々的に花火を打ち上げ、その当初は国民の殆どが、好意的に受け入れた英語民間資格試験と国語・数学の記述式の導入であります。前者は、<話し・書く>能力も試す、即ち、<使える英語>も試験で課せば高校生も必然に積極的に英語をやるようのなるはずだ、よって、国が行うセンター試験では、それは無理、じゃあ、民間業者に委託だ、こうした論理でものごとが運ばれてきましたが「あれれ?」その実施が1年を切る段階になると、その矛盾点・問題点は澎湃と沸き起こってきました。まるで「太平洋戦争の大義名分“大東亜共栄圏”=“4技能均等に伸ばす政策”や、“鬼畜英米”=“学校英語・受験英語の読解・文法主体の授業は悪”などがどうもまやかしで、きれいごとのバルーンで国民が騙されてきたんじゃないか?」と、戦争反対論・戦争無謀論が見識ある国民からも湧きおこり、英語新テストが頓挫する羽目となったのが事の顛末です。
 
 国語の記述式問題も同様です。思考力や表現力を試すと謳い文句はきれいです。しかし、そんなマークシート形式の何十万人受験するセンター試験にへその緒の如き、木に竹を接ぐが如きに、記述式問題を置かれても、受験生{標準的高校生:受験生の約3分の2}は迷惑千万というものでありましょう。
 何十万人という受験生に記述式問題を課すシステムなんぞは、私に言わせていただくならば、国力が十倍以上も勝るアメリカに旧帝国陸軍が戦争を吹っ掛ける発想に等しい愚策であると。暴挙に等しい入試システムですらある。「新テストの初期数年は、生徒にそのひずみ・問題点など少々迷惑・被害が及んでも仕方がない」(文科省の見解)といったものは、「兵士の数万、数十万など勝つため、戦況を好転させるためには犬死しても仕方がない」と全く同じ論理が透けて見えてきます。SNSの書き込みですが、今般の新テスト{英語民間試験と国語・数学の記述問題}を、安倍政権“大本営”の、文科省の下した<インパール作戦>とまで揶揄する表現すらありました。日露戦争で僅差で勝った戦争体験は、奇跡的勝利であったこともわきまえず、それと同様にアメリカに対しても、死中に活をを求めるが如き、奇跡的勝利ができると短絡的に考えていた時の東条英機と同じ発想で、<戦後最大の大学入試改革>を断行しかけたその重責は、下村博文(東条英機)に課せられるべきであるが、安倍晋三が、お友達・取り巻き連中を庇護するのは、麻生財務大臣をかばったように、守っていくことでしょう。彼が、道徳教育や憲法改正で、安倍晋三自身の“槍や刀”{知恵袋}となると思っているからでもありましょう。
 
 教育には、大改革など行っても‘奇跡’は起きはしない。コツコツ地道に、現場主体(教師や生徒の目線)の微調整のみが、教育をまし・まっとうなものへと変えてゆくものです。「狼がくるぞ!」と叫ぶように、「グローバル化の波に乗り遅れるな!」と危機感を煽り、<そこそこうまくいっている制度>(センター試験)をぶち壊し、改革を断行しなければならないその理由・大義名分など一切ありはしない。学校現場・教職員の待遇など一切無視の方針なんぞは、戦場の兵士が地獄を見ている最中に、内地で、大本営発表として、戦況が連戦連勝と報じている絵空事と全く同じではないでしょうか?共通一次試験(1979年)で、国立一期校・二期校の解消を目指したが、欠点として、国公立の偏差値による序列化をもたらしました。これを人は、大学間の格差・序列化・差別だといいます。しかし、考えてもみて下さい。共通一次試験以前にも当然、大学間のヒエラルキーは受験生の意識にあったはずです。ただ、それは、偏差値という数値化で<見える化>しただけのことです。洋の東西を問わず、イギリスでは、オックッスブリッジという大学を頂点にして、アメリカでは、ハーバード・イェール大学・MITなどを頂点にして、中国でも、北京・清華大学など、それぞれの国の大学の<格>というものが存在するのです。共通一次試験は、それ以前の大学の“格”というものを、庶民的目線・大衆的評定の“格差”にしたに過ぎません。この共通一次試験を実施するまでに、どれほど、その現場(大学・高校・文部省)があれこれと熟慮に熟慮をし、練りに練った試案・原案が作られたか、それは、第二次安倍内閣の“戦後最大の大学入試改革”と比較すると、中曽根内閣の国鉄・電電公社・専売公社をJR・NTT・JTに民営化したその思慮深い民営化路線と、小泉内閣の郵政民営化と比較した場合と同様に、雲泥の差があるが如く、全く同じことが言えるかと思います。
 中途半端な郵政民営化による問題の噴出{※郵政の株の半数以上を国が保持している実態}、最近の不適切販売で有名になった“簡保問題”が典型的失敗事例として社会問題となりました。これは、<問題の見える化(顕在化)>です。しかし、教育という段になると、民間資格試験の死角(身の丈発言)、数学・国語記述式問題の盲点(精確性や客観性の担保)など、一部の賢明なる有識者や現場の高校生などから、批判を受けるまで、現場の高校は、ある意味文科省の支配下にあり、当然大学もお役人の息のかかった組織で何も異議申し立てをできずにきました。よって、新テストの問題点を、どぎつく、大ぴっらに発言できるのは、フリーハンドの知識人や現役高校生、そして一部のマスコミのみでした。
 2020年度、オリンピックイヤーの前半、<初め良ければ総て良し>という年にならないことを安倍政権に祈ります。後半の、オリンピック後に懸念される不況で、政権を放り投げるという事態にならないよう、いや、むしろ放り投げて欲しいところですが(笑)…・

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