コラム

私立単願"英国社"で受験する生徒の将来像

 前回が、私立単願、英国数で受験する、特に女子生徒に関しての概括論を述べてみました。今回は、私立単願で一番多い、英国社、それも、日本史(世界史)に限定して語ってみたいと思います。
 
 この英国社の受験生は、恐らくは、積極的、日本史(世界史)派とは決して言えない部族でありましょう。早くて高校1年、遅くても高校2年で数学が挫折した、また、数学よりも日本史(世界史)でのほうが模擬試験などで高得点が望めると判断した生徒たちであることは確かです。数学がそんなに苦手ではなければ、一応、国公立受験組に進んでいるはずです。例えば、一橋とは言わないまでも、横浜国大か、千葉大といった国立を第一志望にするはずです。センター試験という数学ⅡBまでを要する公的試験を回避しているのです。初めから、英国社といった、3科目集中勉強の道を選んだほうが、最低でもMARCH、もしかしたら早慶上智あたりに手が届くのではないかといった淡い期待を胸に、暗記系科目の道を選択するのが、大方の、英国社の受験生心理というものです。
 
 では、この英国社の、受験生とは、その社を選択した心理とは、2タイプあると考えられます。一つは、消極的日本史(世界史)派であります。つまり、“国公立あきらめ派”とも申せましょう。数学がダメで、仕方なく、日本史という暗記主体で凌げる道を選択した生徒です。日本史にはそもそもあまり興味も湧かない種族であります。こうした種族は、学校は勿論のこと、予備校や塾において、日本史なり世界史をカリスマ講師に学んだとしても、その日本史(世界史)の知識を教養として認識できぬ人々でもあるのです。端折っていえば、歴史を因果関係でできている線としての物語ではなく、点としてしか考えていない暗記ものと捉えている嫌いが大であります。彼ら彼女らは、せっかく知的なフック(知の目覚めのようなもの)を高校3年時に身に着けながらも、その後、大学で進んでそれを、使える武器・社会人としての教養にまでステップアップする人が残念ながら皆無なのです。これは、私の経験測で申しているまでです。「いや、私の教え子の中にはその後、進んで新書など読み込み、驚くほどの知性ある大学生・社会人となっている教え子が多数いる」と豪語される教師・講師も当然いることを前提にお話ししているまでです。これは何度もいいますが、私個人の経験内での一般論です。
 
 それに対して、もう一方は、積極的日本史(世界史)派という種族がいます。数学はそこそこできるが、その数学を敢えて捨て、安全な英国社の道を選んだ生徒であります。プチ歴女、準歴史オタクとも言えるようなタイプの受験生です。もともと、歴史というものに興味・関心があり、人間ドラマともいえる歴史のストーリー性というものと受験暗記科目とを絶妙にリンクさせて、その科目が趣味の延長線上でもあるかのように、すいすいと頭に入ってくる種族でもあります。残念にも、こうした部族の中にあってさえも、大学入学後、更に、中等教育で学んだ歴史という科目を、高等教育の段階で、人生の知的たしなみとして深めようという殊勝な心を持ち合わせている大学生も、敢えて申し上げれば、少数派なのです。当然、高校時代に、日本史が大好き、前向きに興味を持った、点数もいい、しかし、そのモチベーションをキャンパスライフで維持している学生は、いたって少ないものです。これは、小学生時代、中学受験で、歴史を面白おかしく習った12歳の少年少女が、中高一貫校に入るや、その知識や興味が薄らいでゆくのと相似関係にあると言えそうです。初等教育、中等教育、高等教育、こうした3段階の過程の中で、前段階の知的関心・興味が消え失せてしまっているのではないかと疑いたくなる悲しい日本の教育風土が浮かび上がってもきます。文科省が高大接続教育を高らかに謳おうが、私立校が中高一貫教育と偉そうに宣伝しようとも、また、地方自治体が小中接続義務教育を実験的に試みようが、そのリンクはものの見事に綻びてしまう現実がある、それこそが日本の教育の最大の問題点なのです。
 数学を捨てた身の上なのだから、いっそ日本史受験組なら、それを教養としての日本史へ、世界史の生徒も同様です。また、積極派日本史受験組なら、独学で、いや、大学の文学部の講義に率先し出席して世界史をも学び直す高邁なる精神を持つこと。世界史組も、また、その逆が言えます。とことんそのせっかく高校時代に築きあげた知の構築物をさらなる高見へと増築する健気な学びの精神、また、もう一棟知的建築物を築きあげんとする気概を、どうして持たないのか?本当に惜しいことです。
 
 
 「梯子の頂上に昇る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」                                          (速水御舟)
 
 
 いずれにしろ、日本史(世界史)消極派にしろ、積極派にしろ、惜しいことかな、大学という高等教育の段階と接続してはいないという悲しい現実があることは、ある意味で、受験英語という、究極の“難解英語”を通過儀礼(イニシエーション)として経てきたにも関わらず、それを、さらなる高見にまでブラシュアップしてやろうとする<高邁なる英語道>に踏み出す、そして、それを踏み台にして英語と親族関係にもある欧州言語{仏語・独語・伊語・西語など}を、第二外国語として身に着けよう、英語レベルにまで極めようなどといった健気な語学精神が欠落している<学習心象風景>といったものが、生徒自身に責任があるのか、大学当局にあるのか、はたまた、時代の空気にあるものなのか、恐らくは、全てが複合的に絡み合っていることは確かでありましょう。だから、巷では、やたらと<教養>というキーワードのつく、自己研鑽書やハウツー本が山のように書店では平積みにされている光景こそ、高等教育で「もっと勉強をしておけばよかった!」といった後悔の念を持つ社会人が、いかに多いかを物語ってもいる、その心象風景としての鏡とも言えるのではないでしょうか。その証拠に、中公新書の『応仁の乱』や『承久の乱』や『観応の擾乱』といったプチ学術的書が驚くほどのベストセラーとなっているのが、その一例でもあります。また、プレジデント、東洋経済、ダイヤモンドといったビジネス雑誌における“英語…”といったうたい文句の特集がいかに多いかは、その証拠です。
 
 現代では、大学生、新人社会人の段階では、自己の資質や気質など自己分析できぬものです。入社後早くて数年、遅くて10年前後、それくらいして、やっと自己の天職・個性・適正・真の好きなことがはっきりしてもくるのです。これは、とりわけ文系に進んだ方に該当することです。
 個人的見解ではありますが、高校生の段階で、将来への知的な学びのオリエンテーションなる講義を、毎学期のはじめに、「どうしてこの科目を学ぶのか?」「この科目が将来自身にどういう位置づけになるのか?」こうした見地で4月、9月、1月の最初の授業で語り合う、議論し合う、教師が熱く語る、こうした試みも必要ではないかと思うのですが…。「いや、効果なしでしょう!」と冷淡にも反論される方も当然いることを前提に述べているまでです。

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