コラム

9月入学は亡国への一里塚➁

9月入学がどうして駄目なのか?

 

今回は、9月入学の間接的弊害とはどういうものかを語ってみたい。

 

縦長の日本列島で、ほとんどの県が海に面し、3分の2が山岳地帯で占められている日本の風土から生み出される四季の豊かさ、さらに、稲作から生まれた水田の光景、こうしたもろもろの諸条件が、日本人の気質、典型的なものが、“もののあわれ”を生みだしたと言っても過言ではない。この海彦・山彦伝説ではないが、彼らが住まう国で、それが稲作という生活サイクルで規定されたものこそが、日本人の精神構造でもある。

 

太陰暦を明治の初期、太陽暦に変更した、しかし、正月やお盆、お彼岸などはクリスマスと共存してきた。そして、さくらが列島全体を北上し、咲き乱れるまでに色づかせる3月末から5月初旬、ほぼそれと軌を一にするように、新年度が始まる。別れと出会いの季節を国民の花、さくらが短いながらも、優しく見守ってもくれる。

自然豊かな海や山、そして田植の季節に、さくらが新年度のゴーサイン(新たなの年の船出)を出す。

これこそ、日本人のメンタルを養ってきた淵源でもある。これを、グローバルスタンダードと称し、コロナ禍を大義名分に、火事場の騒動で“文化の大革命”を引き起こす政治家(知事たち)など、国を愛するか否かどうか、真の母国愛が試されるリトマス試験紙ともなる。そもそもコロナ休校で、授業日数が足りない、だったらこの機を利用して、いっそのこと、<9月入学の令和維新だ!>と宣言した村井嘉浩宮城県知事、防衛大学校あがりのわりには、真の愛国心がないと言わざるをえぬ。愛国心とは、なにも、防衛や安保といった蛮勇の文明的側面ではなく、文化を優先する、情緒的な文化的側面を重んじる精神である。大和心とは、武勇的勇ましい精神ではなく、和歌などににじみ出ている、むしろ“めめしい”精神のことであると保守派の守護神小林秀雄も述べておられる。

谷内六郎、原田泰司の絵画に、どれほど日本人はある名状しがたい郷愁といったものを感じるか。

中田喜直の作曲した「夏の思い出」「ちいさい秋みつけた」「雪の降るまちを」や、その父中田章の作曲した「早春賦」など、日本の(めぐ)めく季節のBGMとして日本人の遺伝子をどれほど、これまで和ませ、癒やしてくれたことだろう。

中島みゆきの「春なのに」や松任谷由美の「春よ、来い」にしても、さくらと別れ、出会い、悲哀といった人生の様々なる情景を歌い上げた歌謡曲・ポップス、フォークから童謡に至るまで、名曲がどれほどたくさんあることだろう。これからも、3月から4月にかけての人生の分岐点をモチーフにした名曲が続々と生まれてくることだろう。4月入学のみならず4月新年度の、日本の音楽文化への多大なる影響は計り知れない。因に、昔私が高校生だったころ、竹内まりやのヒット曲「September」の世界が理解不十分であったのは、日本の教育システムが4月入学であったことに起因する。

こうした4月新年度を人生の舞台とした名曲への共感が、これから先、9月入学などに変更されようものなら、平成末から令和にかけての若者が、昭和演歌の名曲、「津軽海峡冬景色」「北の宿から」「舟歌」などの心象風景が理解できぬように、「ママ、これ(森山直太朗やコブクロヤケツメイシなどの“さくら”“桜”の名曲)がどうしていい曲なの?」といった言葉を吐く、時代背景に無知なことも災いしてか、心が鈍感になってしまう子供たちを生み出しかねない。昭和・平成の名曲が、“古典(平安の和歌)”となりかねない。東京のタワーマンションで育ち、自然豊かな野山に一切無縁で育った“デジタルネイティブチルドレン”が、ゲームの世界とTDLUSJのレジャー施設のみで心弾ませる気質の少年少女を生みだしかねない空恐ろしい将来の日本となることは私の取り越し苦労であろうか?こうした<4月入学という制度と音楽文化の幸福なる共存>という状況を9月入学にしたとしたら、加速度的に、日本人の感受性・共感力・繊細さといった美徳を消滅へと導びき、文化の或る意味よき伝統の消滅を招来しかねない。

 

私は何度も強調したい。初等教育(幼稚園から小学校)は文化が5分の4、中学時代は文化が3分の2、高校時代は文化が2分の1、そして大学時代は文化は3分の1、こうした比率で、教育を認識しなくてはならぬのである。生涯にわたる親友の濃密度がこれを証明してもいる。これは、アナログの重要度とも比例している。アナログは、ある意味感性を育み、デジタルは、知性を磨き上げる。これを忘れて、大学入学は9月だから、高校入学も9月、そして、中学入学も9月と、今般の9月入学案が、ファシズムのように、受け入れられでもしたら、これは、文化としての教育に癒しがたい禍根、国家、国民の美徳の消滅ともなりかねない。今や盛んに喧伝されている教育ツール、いわゆるオンライン教育は、中学生や小学生には、まったく効果がない、いや余り効果がないと言っておく。効果があるのは、ゲーム脳、デジタルタイプの少年少女である。コロナが収束したあかつきには、即刻、こんなデジタル教育は、中断すべきであると主張しておこう。恐らく、こうした意見は超少数派であることを前提に言っているまでである。大学生ともなれば、オンライン教育といっても弊害は少なかろう。理由は簡単である。20歳前後ともなれば、感受性が鈍り、感性も枯れ始める。「早く読まないと大人になっちゃう」ある出版社の文庫本のコピーである。漱石、芥川、太宰、三島などの文豪の名作は、少年少女時代に読まねばならぬ必須のアイテムなのである。文学とは、感性を磨き、感受性の耐久年数を増やす効果がある。知性とは、歳をとるに従い磨かれてもゆく、知識も増えてゆくもの、しかし、感性はひなびてゆくのが人生上の摂理である。歳を取ると音楽を聴かなくなるのは、ある意味、その典型といってもいい。知性は、仕事でも磨けるが、感性は仕事で摩耗されてゆく、私の持論だ。だから、音楽や絵画などの芸術で自助努力で磨いてゆくしかないのである。古典的名作は、歳をとっても効果がないのである。私は何度も引用する数学者藤原正彦氏の名言だが、「小学生に必要なのは、1に国語、2に国語、3、4がなくて5に算数、パソコン、英語、そんなのどうでもいい!」これぞ、教育とは、文明ではなく、文化に基軸を置いてなされるべき論の鉄則である。巷でよく耳にする、小学生からキッザニアで職業体験、中学生から株のデイトレードの学習、こんなものは、モノ好きな親が我が子にやればいいだけのことで、世の中が率先して奨励するべき教育ではないと、天邪鬼居士の私としては主張しておきたい。これそ、移民で成立している、弱肉強食が背後にあるアメリカ流教育の何物でもないからだ。

天才数学者岡潔のことば、「数学は情緒にある」これを敷衍すると「論理とは情緒にある」ともいえる。これを飛躍ととるか、真実ととるか、これが真の教養人・知識人・教育者であるか否かの分かれ目でもある。これが分からぬ文科省の輩が、高校生の国語の教科書を「文学国語」「論理国語」と股裂き状態にする愚挙にでたのである。こうした学びの真理、王道を理解していない大勢の知事や教育評論家尾木直樹氏などは、宮城県知事村井嘉浩の9月入学案に浅慮的付和雷同したのである。コロナ禍の火事場で、どさくさ紛れの表層的グローバル論を提案したが、昨年頓挫した英語民間試験の導入や、国語・数学の記述問題の採用のごとく、コロナへの国民の恐怖心が収束してゆくのに比例して、9月入学案は消滅してゆくこと間違いなしと言いておこう。そこまで日本人は馬鹿ではないと信じてもいるからだ。
 三島由紀夫が『文化防衛論』の中で天皇を基軸に置いたが、私は、敢えて主張する。私は4月入学を『文化防衛論』の基軸に置きたいと。

 

 

 

明治期に雛形できた文明の側面に入る政治・経済・教育制度のシステムが、第二次世界大戦で、すべてアメリカ型になっても、実は、4月新年度、4月入学という慣例を、幸いなるかな、GHQは素通りした。その文化的慣習が存続したからこそ、日本人の豊かな感受性・感性が損なわれずにすんだのである。9月入学など断行したとしたならば、日本文化、野山を背景にした水田、棚田の光景、それは、川合玉堂の日本らしい野山の風景や向井潤吉の描く古民家への共感、谷内六郎や原田泰治のメルヘンチックな絵画への思い入れ、こうした情景へと誘う、日本文化に根差した郷愁感、つまり、“もののあはれ”である。そういったものを自ら放棄する行為となることになることだけははっきり断言しておこう。

 

今やポスト林修とさえ言ってもいい、超売れっ子歴史学者磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)の中で語られている一節を取りあげ、締めとするとしよう。

 

司馬遼太郎が、最晩年、大阪書籍という教科書会社から「小学生の子どもたちにメッセージを書いてください」という依頼を受けて書いた“二十一世紀に生きる君たちへ”という短いエッセイについて磯田氏は次のように評しています。

 

司馬さんがこどもたちに伝えたかった主旨は、おそらく日本人の最も優れた特徴である「共感力」を伸ばすことだったと思います。司馬さんのこの文章内の言葉で言えば、「いたわり」です。他人の痛みを自分の痛みと感じること――どうしたら相手は(つら)いだろう、どうしたら相手は喜ぶだろうといった、相手を(おもんばか)る心が日本人は非常に発達していることを司馬さんは指摘します。(P176~177


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