コラム

高校時代は、小さな完成品よりも、大きな未完成品を作る時代だ

「高校時代は、小さな完成品よりも、大きな未完成品を作る時代だ」(阿川弘之)

 この言葉ほど、現代の高校生、そして、世の風潮、そして、文科省を含めた教育界において忘れさられている、いや、本来がそうした自覚なしに、私を含め昭和の高校生も過ごしてきたのだが、人生を半分以上を過ぎて、いっぱしの大人になった時点で、特に、教育界の端くれで細々と中高生に向き合う日々の中、市井の塾の一英語講師として、しみじみと味わい深いものはない。

 この言葉の真意は、こじんまりとした成功で満足し、その時点で、個人、企業、組織がその成長発展をとめてしまうケース、そして、失敗に継ぐ失敗の連続で、なかなか実績や成果があげられず、悶々として、疎外感、敗北感にさいなまれながらも、結局は、大きな、いや、小さくてもいい、何らかの成功を収め、さらなる飛躍へとステップアップする存在者にとっては、味わい深いものである。

 この言葉は、個人的なケースを申せば、小学校6年時で、初めてラジカセを買ってもらい、クラシックの名曲の有名な箇所を集めた『クラシック・メロディ ベスト80』(CBSソニー){※今では、この手のベスト盤のCD集が、多種、巷に出回ってもいるが、1970年代は、恐らく皆無であったであろう!}という、3200円もするカセットテープを秋葉原の石丸電気内のレコード店で購入した。それ以前、小学校の音楽の時間に、偉大な音楽家の名曲をレコードプレーヤーから聞かされることが度々あった。その都度、その名曲のさわり、サビ、有名なパーツのみを聞かされ、クラッシック音楽の表層の表層、入門の入門とやらを耳にして、それが溜まりに溜まって、そのレコード店で、その『ベスト80』というものをお年玉で購入した。その後、その80曲を、ラジカセで擦り切れるほど聞いた、その経験が、その後、大学生になり、小銭も持てる身分になり、特に、友&愛などというレンタルCDショップで、クラシックの名盤を借りに借りまくり、聴きいっては、そこそこクラシックの名曲に、そこそこ造詣が深くなってもいった経緯というものがある。こうしたケースも、ある意味、クラッシックのさわりながら、大きな未完成品を小学校高学年でつくっていたと思われる。

 高校時代になって初めて読書少年(文学青年の一歩手前)になりかけた私は、それまで小説らしいものを全くといていいいほど読んだことがなかった。そこで、特に、日本文学というものを、文学事典をきっかけに、それを指標に、たいがいの文豪の作品を、新潮文庫を中心に読みまくってもいったのだが、唯一の弱点、興味・関心外というジャンル、それは海外の文学というものが弱点、未開発ドーンであった海外文学にはほとんど目もくれず、いや、興味が湧かなかったのであろう、読書の範疇外でもあった。しかし、その私が読み込んでいった日本人作家のバックボーンともなっているには、多くは外国人作家などであった。そうした作家は、大学生になってから読もう、ある意味、海外文学に関しては、片手落ちの、偏った文学少年でもあったが、この欠落した方面を、大学時代に、何とか埋め合わせもした。帳尻を大学であわせたわけだ。

 また、倫理という科目も、高校時代に、良き倫理の教師に恵まれた。実に様々な哲学者や思想家、そして、書籍や考えなども、ジグソーパズルのピースが欠けた状態ながら、非常に、古今東西の哲学思想に興味関心が湧いていった。そのおかげとは言いえるやも知れないが、それも大学時代に、高校の倫理の教科書に出てくる古典の類を背伸びしながら、瘦せ我慢的に読んだものである。その、高校時代の、未完成として倫理の授業が大きなものであったおかげで、大学時代に、その知的関心が沸き起こり、高校時代に名前さえ知らなかった現代思想(ベルグソン・バルト・フーコー・ドゥルーズなど)というものへと接近していった。これも、フランス文学へ進んだ、<未意識なる知のロイター版>でもあったのが、高校時代の、日本文学から海外文学へ雄飛してやろうという気概、そして、倫理の授業における、受験を論外とした、恵まれた教師のおかげで、思想哲学の種が蒔かれて、小さな苗に育った模様である。そうした、未完の文学(※日本文学しか読んでいない)と初歩的哲学(学校に倫理を経た哲学の超入門)、この結節点として、私は、フランス文学に誘導されてもいいたようだ、確かにそれが発条(ばね)ともなり、仏文を選んだ一因ともなったことは、疑いようのない事実である。高校生の私でも知っていた、サルトルとカミュという存在が、作家でもあり、思想家でもあるという、独特なる存在として、フランスという国の知識人に、漠然とした、<教養の灯台>というものを、意識し始めてもいた頃でもある。

 確か、私の高校時代か、浪人生時代か、浅田彰の『構造と力』がブームとなり、現代思想、特に、フランスの哲学・思想という存在が、私の目の前に立ち表れてもきた時代である。
 そうである、私の中学時代は、『クラシックの名曲80選』が、高校時代は、日本文学が、そして倫理の授業が、おのおのが、私の大きな未完成品として、大学時代に完成品としての宿題を出してもいたように思われる。だが、これらは、いまだに、完成はしてはいない。

 実は、ここに、教養という、完成品のない、学びの道程の真の姿があるのである。
 教養とは、永遠なる未完なる知的営みの姿の一側面でもあろう。

 一般の大学生は、高校から大学に合格した時点で、それまでの英数国理社という、ある面で、答え、正解がある教科上、その科目を完成したと錯覚する。そう錯覚する新大学生こそが、小さな完成品をつくってきた者たちなのだ。また、高校までの教科とは、一切ことなる学問をするという、ある意味、間違った思い込み、錯覚が、まるで定期試験後の、棒暗記した古典や歴史の知識のように忘却の彼方へ忘れ去られるのである。こうした知的精神の態度は、まったく間違っていることを教えてもくれるのが、池上彰や佐藤優の書籍であり、彼らの言説なのだ。

 理系に進もうが、古典の授業で読んだ源氏物語の一節、平家物語の一場面から、そうした日本の古典の世界を大学になってから読んでやろう、読んでみたいという内発的、知的関心が湧く者は、大きな未完成品を作った科学者にもなる。これに類することとして、ノーベル化学賞の福井謙一にとっての夏目漱石であり、ノーベル物理学賞の益川敏益にとっての芥川龍之介でもある。

 文系においても、高校時代の歴史と政経とを、偉大な未完成として育て上げた人は、その後、大学時代に、著名なる政治学者となる者が多い。

 彼らの知的内面の成長(中等教育から高等教育へ)の特徴とは、まるで、ローマ帝国(理系)と漢帝国(文系)という、東西の雄ともいえる大国の間に、文明(理系)と文化(文系)の融合に、いや、シナジー効果に、貢献したシルクロード、いわば、自身の内奥に<知の配電盤>を築くことと同義であると、考えるのは、論理の飛躍、誇大妄想といったものであろうか?いや、大きな発明、発見とやらは、凡庸なる大衆にとっては、知的蛮勇{マルコポーロやコロンブスなど}とも目に映る所業であるが、実は、これこそが、社会や個人の精神を、ステップアップする、脱構築する、成長発展させてもゆく、原動力ともなっているのである。阿川弘之の名言を軽く見てはいけない。

 小さな完成品の大敵とは、満足であり、わかったという慢心であり、学びの領域における優越感でもある。特に、受験の勝ち組にとって、とりわけ、この高等教育における学びの陥穽が待ち構えてもいるのである。得てして、大きな未完成とは、大学受験にとっては、大敵となるケースが多い。知識や内容の不完全さやむらが弱点となるからだ。しかし、矛盾するようだが、また、逆説的ながら、この受験という戦場で、弱点ともなりがちな、この大きな未完成をもちながらも、その科目が、興味関心の対象であり続ければ、大学以降の人生は明るい。しかし、小さな完成を、興味関心を抱きながらも作り上げた大学生は、ちょうど、幼稚園児の砂場の山づくりではないが、底辺を小さく、こじんまりとした小山を築いた山が、それ以上高くならないように、一般的には、それ以上は高くはならない。その真実こそ、「高校時代は、小さな完成品よりも大きな未完成品を作る時代だ!」の真意が流れてもいよう。



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