コラム

天邪鬼でないかぎりSDGsは実現しない<ユニクロ論①>

 今話題の新書『人新世の「資本論」』の作者斎藤幸平氏が週刊文春の対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」(7月29日号)で、自身の主張を分かりやすく以下の様に語っていた。要点である。
 
①エコバックは、無意味である。環境保全に役にたたないと言い放っている。
 
②「宗教は大衆のアヘンだ」(マルクス)をもじって「SDGsは大衆のアヘンだ」と言い放ち今流行りのスローガンを揶揄している。
 
③「うちの会社の商品は、環境に優しいですよ」「だから買ってください」と言わんばかりの企業を批判している。
 
 具体的企業は、対談では言及してはいないが、私は、敢えてそれはユニクロだろうと主張したいのである。
 
 自慢ではないが、私は、ユニクロで商品を買ったことがない。もちろん、ユニクロの衣料品など持ってはいない。極論ながら、アンチユニクロ派なのである。主観と独断・偏見を交えて申しあげれば、あの柳井正という社長の面構えが好きになれない。カルロス・ゴーン同様に‘強欲の塊’の相が露骨に表れている。そして、ユニクロの製品は機能性・快適性優先で、それが売りでもある。ヒートテックやエアリズムなどの商品が代表格でもあろう。しかしながら、無味無臭な工業製品としての無機質なデザイン性(アパレル評論家小島健輔の指摘){※これを節穴のファッション評論家『おしゃれ嫌い』(米澤泉)はシンプルなどとほざいてもいる}が昔から好きにはなれないのである。また、当然ながら、購入したとしても一生長く着続けようなどという気持ちが私自身に関して言えば、湧いてもこない衣服である。この点で、私の感性や直観をものの見事に言い当ててくれている書物が、小島健輔氏の『ユニクロ症候群(シンドローム) 退化する消費文明』(東洋経済新報社)である。これと『おしゃれ嫌い』(新潮新書)の両方をお読みになれば、私の見解もまんざら嘘でもないことに気づくはずである。
 
ある批評家が以前口にした言葉「マルクスという人間は嫌いだ、マルキシズムも大嫌いだ、しかし、マルクスのパラダイムは評価している」をもじって、「柳井正という社長は嫌いだ、ユニクロイズムも胸糞が悪くなる、でもユニクロのSPAという手法は企業として最善手でもあった」と私は言い換えてもいい。しかし、あくまでも評価すべき点は、ビジネスというフィールドで、企業の成長という観点、資本主義の根幹でもある利益の追求、こうした側面からのみであって、ただそれだけである。ユニクロの縫製や生地は、一流でも、そのデザイン性や配色・柄は、一流アパレルの‘パクリ’の感が否めない。現代では、自動車が、<昭和の自動車>の観念たりえず、<家電製品>になれ下がったように、ファーストファッションの衣服は、<昭和のファッション>の観念から<スポーツウェアー>に移行した感が否めない。また、有名アスリートや俳優・タレント、さらには、アニメや映画などとコラボして、イメージ戦略に抜け目がない。敵をつくらない、仲間を増やすマーケティングである。あのダイエー帝国が、カリスマ中内功一代で消滅したように、柳井社長後、ユニクロ帝国が息子たちの代で斜陽期を迎えるであろうと私は予言しておく。カルロス・ゴーンなき後の日産と同様の運命をユニクロもたどるのではないかと思う。
 
 お分かりやもしれぬが、私は天の邪鬼、へそ曲がりなのである。おまけに、痩せ我慢を生活の旨の一つに据えてもいるつむじ曲がりもある。実は、個人個人が、こうした、ある意味、“徹底的ひねくれた個人主義”を貫き通さない限り、SDGsの実現など夢のまた夢、いや、SDGsの理想へ近づくことすらできはしない。実は斎藤幸平氏も語っているが、企業がSGDsなど標榜しても、形を変えた利益追求に過ぎないからでもある。21世紀の資本主語は狡猾である。スマホで大衆を操作できるからでもある。環境にやさしいを方便・ツールにした利益追求と裏腹でもある。
 
 高級車に乗って、高級スポーツジムに通い、トレーニングの後、サウナに入り高級フレンチを食し、また車で帰宅する生活をする。
 
 大枚はたいてライザップに通い、スリムアップの肉体を会社の同僚に自慢する。しかし、そのライザップでビルドアップした肉体など、せいぜい数年でリバウンドがくる。ボクサーの現役時代イコールライザップに通っている期間でもある。
 
 大枚をはたいてまで高級ジムやライザップに通うくらいであれば、ママチャリで、手ごろな近所のジムに通う、いや、これもお金がかかる。毎朝近隣をジョギングでもし、リビングで腹筋腕立てなどをする。それならこうである。今や副業(複業)の時代である。毎朝、自転車で新聞配達でもして、一汗流し小遣いを稼ぎ、会社に向かう発想でもしないかがり、地球環境の温暖化ストップなど夢の夢でもある。
 
 「大金払って(スポーツジム)健康に!」から「お金もらって(新聞配達)健康に!」への意識の大転換が必要である。これがまた、私流の天邪鬼、痩せ我慢的発想からきているのであろうか。いやそうではあるまい、斎藤幸平氏も語っていたが、24時間営業のコンビニで、いつでも欲しいものが手に入る、24時間以内でアマゾンで注文したものが手に届く。こうした便利さが、当たり前の発想から、それが異常でもあると感じることが、エコ社会への近道であるとも述べている。これもまたデジタル社会の‘透き通った悪’であると指摘する者は少数派である。
 
 中国社会で、習近平の批判がタブーであることと、日本社会で、柳井正(ユニクロ)批判ができない思考停止状況は、通底していると、同根であると批判する者は皆無なのである。

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