コラム

推薦制度とZ世代気質の親和性

 弊塾の教え子、特に女子に多いのだが、世界史や日本史選択の高3生で、推薦でMARCHレベル以上の大学に行きたいモチベーションがある者に限り、歴史そのものに関心がない。でも、内申の評定を、4から5にもっていきたい動機でもあろう、定期試験で、その試験範囲を、闇雲に、必死に暗記する。試験の一夜漬けの、2カ月漬けバージョンといったところだろうか。興味や関心など一切なくても、古典の授業のように、その範囲を、流れや因果関係などお構いなし、力づくで脳内の押し込んで、試験後は、快晴の空の如く、雲に一つなく、綺麗さっぱり忘れ去る、これが、私立文系で推薦をめざす女子高3年生特有の学習キャラである。

 私の分析である。令和の中高生は、<短距離型・短編小説型>ともいっていい学びの種族である。原因は、スマホである。娯楽であれ、勉強であれ、集中力が欠如したのか、様々な自身のすることが多すぎて、気が散漫ともなり、あれもこれもと、長続きしない精神(mind)になっている模様である。

 こうした気質は、現代のZ世代マーケティング手法{『Z世代マーケティング』~世界を激変させるニューノーマル~〔(ハーパーコリンズジャパン〕)}でもとみに有名なのだが、短期間、コスパ、タイパ最優先主義ともパラレルであるようだ。

 SNSの動画作成の鉄則は、短時間にあるともいう。ティックトックなどは、十数秒の動画で作ることが鉄則である。ユーチューブの動画作成も5分以内に抑えることがルール。さらに、近年では、イントロのない歌が多い、それも、サブスクでの、スポティファイなどの聞き放題の音楽は、最初の数秒を聴いて、すぐ良いか悪いか(自身の趣向から)自己判断してしまうからであるそうだ。だから、曲の作り手は、敢えてイントロのない楽曲を作っているという。極最近耳にしたことだが、今ではスマホで観ることのできる3分ドラマがZ世代を席捲してもいるという。

 嫌なもの、長いものを回避し、自身の興味関心の対象範囲内のも、短いものへと心理的生理的に迎合する風潮は、まさに、コスパ・タイパといった概念とも並行する、早送り{二倍速・三倍速}でテレビドラマなど鑑賞する(?)傾向と同質のものでもあろう。

 この短期間気質こそ、世の高校生が、推薦制で、大学へ入ろうとする心境・知力とシンクロするのである。それは、どういう事かといえば、日本史でいう、大学入試における古代から現代を通暁し、その流れを把握し、そして、膨大な知識を暗記する行為を毛嫌いするということである。そして、学校の定期テスト、それは、中間試験の範囲でもある平安時代だけ、期末試験の範囲である鎌倉時代だけ、それを、一学期に、それぞれぶち切り状態で、丸暗記し、その定期試験を、短期戦で凌ぎ、内申の4~5をゲットする。この勉強感覚の短期戦なるものは、日本の太平洋戦争ではないが、民族的気質と一致する。長期戦には、向かないものらしい。また、年末の忘年会で、良きにしろ、悪しきにしろ、すっかり忘れ去ろうと、そして新年を迎えるを是とする民族性ともリンクする。

 世の教育評論家、文化人、学者などで、推薦制に否定的な者の論拠は、勉強の短期戦、勉学の非連続性、学問の非一貫性、こうしたマイナス面を有する者が、芋ずる式にキャンパス内に流入してくることが、最大の懸念的材料でもあろうか。こうした学びをしてきた高卒生が大学生となっても、その資質、知力は、専門学校生とたいして違わないからである。この事態は、理系だと露見する、支障がでる。物理を知らずして、工学部へ、化学を学ばずして、医学部へ、数学を苦手として、理学部へ、こうした実学のジャンルであれば、困る実状は明々白々でもある、だから理系は、半意識的に、将来の進路と関連する科目を長期的暗記で勉強する。しかし、文系ともなれば、英国社など高校時代の知識など皆無でも、日本の法・経・文などといった社会科学系・人文科学系など、大学の講義さえ出席し、レポートを提出し、ゼミで積極的に発言すれば、即、卒業の学士がもらえる、安楽なコースでもある。ここが、高大接続ならぬ、高大非接続なる日本の文系学部の実体である。キャンパス内を見渡して、接続しているものは、ある意味、教養がある学生のメルクマールともなる。英文科や国文科に散見される、中学高校時代は、小説など一切読んだことがない学生がわんさかいる現状である。学生自らの興味関心・努力精進で、接続している者は、学者となるか、いっぱしの社会人として、ある程度の、花を咲かせる。ここにも、大学までの人、大学からの人の分水嶺が存する。ある意味、知識というさなぎが教養という蝶に孵化するかしないかの命運がある。今は、学歴ではなく、学び歴の時代であるとされる所以である。これ、社会人以前の、大学生に教訓とすべきものである。知識の短距離型は、新聞等の四コママンガと同じでもある。記憶にはとどまらない、毎日の天気予報のようなものである。

 この高校時代の知識を有して、それを持続させ、それを脳髄で、大学時代に化学反応させることが、知としての武器ともなることを世の高校生は忘れてもいる、いや、昭和・平成もそういう学生が大勢を占めてもいたであろう。AIやコンピュータの超発展期にあって、暗記は不要、知識などを覚えても仕方ないとする、令和時代の暗記否定派の死角がここにある。基礎があって、応用があるように、知識があって、思考力・判断力・表現力が、育ち、根を張るのである。その意味で、現場高校の、特に、英語、歴史、古典といったジャンルは、一切高等教育の段ともなれば、脆弱・情弱なる、高大接続なる理想とは、どれほど程遠い現況であるのか、この視点で、誰も指摘しようとしない。

 余談ではあるが、2025年の現代ほど、プライベートで私的時間を、ゲームという娯楽で占有されてきた時代は、これまでにない。まるで、スマホの出現で、巷のパソコンスクールが見当たらなくなってしまった状況のように、家庭用ゲーム機からスマホのゲームアプリに至るまで、繁華街のゲームセンターを、放逐してしまった事態が、世の人々を、デジタル脳ならぬ、ゲーム脳にした感の淵源である。ゲームとは、そのソフトなりをクリアーすれば良しとする、まるで、条件反射能力で、チャップリンの名作『モダンタイムズ』の一場面ではないが、ベルトコンベヤーの上を流れてゆく工業製品を、無機質に、機械の歯車同然に処理してゆく様とかぶっても見えている感覚は、<精神の疎外>と、私に映ってもくる。

 アナログ人間の宿命でもあろうか、ミニマリスト・断捨離・終活といった世の趨勢的態度とは、私の気質は、水と油でもある。<長距離型・長編小説型>の宿命でもあろう。因に、私は、ゲームなど一切しない、したこともない。 恐らく、推薦で大学生になった男女には、五木寛之の『回想のすすめ』~豊潤な記憶の海へ~〔中公新書ラクレ〕やプルーストの『失われた時を求めて』などは、一生無縁の書物ともなるのであろうか?


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