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子供に快感を与える外界からの目線の変化

 子どもに「どうして勉強しなくちゃダメなの?」と訊かれた時、応えに窮する大人は多いかもしれない。しかし、大人が、大人に「どうして学び続けなくてはならないのか?」と質問したら、そのする方の知的レベル、もしくは教養度といったものが疑われる、また量り知られてしまうものである。では、大人が、子どもに「どうして勉強しなくてはならないのか?」と質問するケースもままあるであろう。これは、中等教育に関してだが、大人が、中学から高校生にかけての自我が芽生え始める思春期あたりの少年少女へ「どうして勉強しなければならない、いや、人は、どうして勉強するのであろうか?」と、問いを振り向けてみた際に、説得力のある解が、脳解剖学者養老孟司の次ぎの発言である。

 「どうして勉強するのか?それは、する前とした後の自分が変わっているからだ。その変わった自分が、これまでのものの見方を大いに変えてくれる。その快感が、勉強をする動機ともなっている」

 これは、小学校までの算数と数学との違いに衝撃を受け、抽象的な記号や方程式などで従来の何々算とやらが全て解けてしまう現実を目の当たりにする。また、小学校までの大人の世界の表記がアルファベットであり、その意味を了解したり、外来語としてのカタカナの正体が英語を学んだ以降に垣間見えてきたりする経験をする。こうした中学校から始まる新しい教科(数学・英語)を学んだ際の、“海外旅行”にも似た“知的感興”が中等教育の追い風ともなっている実例が、養老氏の言葉を根拠づけてもいる。但し、“海外旅行”に一切関心がない、興味もない、しても“国内旅行”と変わらない興味関心しか湧いてこない種族も当然いるという前提で語っているまでである。

 この養老氏の言説の文脈とは、若干ズレる、いや、違うドライブ(駆動要因)が、私の小6の勉強体験である。

 小6の一学期の定期テストで、一応は、下町の片田舎の公立小学校の一クラス内で一番となった。それも、クラスで中間をうろうろしている昼行燈的学力の生徒がである。十位以内にいる生徒が浮上したなら、これは、クラスでさほど“光った存在”にはならない。曇りから晴に変わったようなものである。雪ではないにしろ雨から突然、快晴の天気に変わるようなものである。クラスの雰囲気が、私の周囲で突然変わったことが、うすうす感じられてもきた。
 クラス内では、鉄道の話が好きな者、PTA会長の息子、習字や絵が上手い連中、彼らは一般的に勉強ができた、成績が良かった。一方、野球がうまい、体育の授業で目立つ連中などは、成績が下のグループでもあった。敢えて言えば、私は、後者のグループであった。休み時間や下校途中など、日ごろのクラスの棲み分けが違っていた。私は、前者とは話も合わず、向こうから話しかけてくることもなかった。私の主観であるが、前者は、少々クラスで“お高く留まっている連中”であり、勉強カーストでは、私は後者のグループで、前者から目もくれない、意識もされない存在でもあった。

 それがである。あの日、クラスで一番の成績をゲットして以来というもの、勉強派の連中が、休み時間に話かけてくるではないか、また、下校の際、「露木君、一緒に帰らない?」と私に言い寄ってくるではないか。文化系、いわゆるお勉強ができる上位組が、体育系のお勉強ができないグループにいた私に、向こうから話かけてくるではないか。勉強ができるだけで、クラスの連中は手のひらを返す行動にでる、ああ、人とはこんなものか、勉強ができるようになるとは、こういうことなのかを、周囲の態度の豹変で実感したものである。
 それだけではない、大人の世界も同様である。父方の親戚が周囲に大勢いた。その叔母叔父のみならず、従業員の職人さんやパートのおばちゃんから、従来、私は、康仁を捩って、「やすベー」「やす坊」「やす」だの、まるで愛犬の柴犬に命名するかのような小ばかにした愛称で呼ばれていた。その当時は、それを何とも思っていなった。その成績の一件が親戚一同に広まったようである、「やっちゃん、勉強で一番になったみたいね」と自宅にCおばさんが駆け寄って来て以来というもの、その叔母はもちろん、従業員の人たちからも、愛称が、「やっちゃん」「康仁くん」に変わっていった。十代になりかけの、思春期以前の少年の内面に、大人の子どもを見る目線の一基準を垣間見た思いをした。子ども心に、気持ちがいい、プチ自尊心がくすぐられたではないか。ああ、勉強ができると、大人の連中の見る目も違ってくるのか、これは、自分が変わったことの養老孟司的文脈の快感ではなく、自分が変わったことで他者の目線が変わったこと、周囲の空気が激変したこと、その他者の目線が注がれる快感から、何かと勉強ができた方が得である、その方が、自身の生活、人生の歩む道が、進むには快適である、心地いい。そうした現実を痛感した。

 そんな環境である。二学期の学級委員長を決める投票でも思わぬ事態を招来した。

 本来なら、私は5年生まで、学級委員を決める投票では、ふざけて一票いれられる部類でもあった。一票が入り、黒板に‘露木’の名が記され、“正の字”(画線法)で一が記されるとクラスから笑いが起こった。そんな、できらんぽのやんちゃ組の一人でもあった。

 しかし、6年の2学期の投票は違っていた。一票が入るや、やはり、笑いが起きた。二票目もかすかに笑う声が聞こえた。三票目から、笑いが止み、四、五票と増えてゆくではないか、その場は、むしろ、沈黙へと変わっていった。最終的に、私は最多数票で、学級委員長になった。ああ、勉強ができると、こうも、周りの評価が違ってもくるものか、これが、一種の快感ともなった。勉強をやらざるをえぬ立場、境遇、環境へとステージアップした決定打ともなった事件である。

 この学級委員長になったという噂は、当然、すぐに親戚一同に知れ渡った。戦前に小学校や中学校を経てきた世代である、学級委員長とは、旧来の“級長”とも認識されて、叔母たちには大事件でもあった。ただ勉強のできる甥っ子がクラスの“優等生”に格上げである。更に、叔母叔父、そして、従業員たちの態度が、まるっきし変わった。私が、少しでも、勉強はしなくてはという自覚が内面的に生じてきた、ダメ押しの決定打ともなった経験である。

 私の勉強の<明治維新>が、成績が一番になった事件、そして、<廃藩置県>が、学級委員長となった事件、この二つが、外発的に、勉強する大切さの自覚、いや、表層的ではあるが、気持ちのよさ、自尊心の芽生え、つまりは、精神的効率主義ともいえる着火点を植え付けた契機ともいえる。勉強ができるという現実(快感)が、稚拙なる優越感、表層的自尊心を招来した内面の大事件でもあった。

 子どもが、勉強するとは、なぜ勉強するのか、そうした、私なりのきっかけも、子どもの勉強へのフックともなりうると思い、恥ずかしながら吐露した次第である。(つづく)


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