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⑨質か量か?~悪しき帰納法と武田塾~

 ある決意をして独学で英語を究めた者、社会人で、苦手だった英語を、仕事に駆られて独自でものにした者、音読で、ひたすら音読で、東進ハイスクール講師今井宏流の音読教で、英語の成績が伸びた高校生、ひたすら英語を聞きに聞きまくって英語の猛者となった、スーパーDJ小林克也のような大学生時代に洋楽から英語を学びとった者、彼らは、ある意味で、モチベーションありき、意識高い系の帰納法で、その英語の核心に到達した種族である。

 こうした、成功組の帰納法を、英語は手段、英語は仕方なくやるという種族にとっては、苦行難行のなにものでもない。自身の成功体験を、自身とは、環境・目的、さらに、英語愛といった気持ちの強弱を考慮せずに、それを押し付ける、昭和のスポコン的英語の学び方でもある。

 一般的イメージ、通例の概念として、帰納法は、量が、演繹法には、質が、それぞれ手法の主役となる。

 まず、帰納法だが、帰納法にも、二タイプあるというケースを教育上誰も指摘しない。
 
 ある、核心・コア、その種となるもの、それは本質とでもいっていいものでもあるが、敢えて、それを質と呼ぼう、それに到達することを、量に継ぐ量で、数をこなす、それ旨とする。禅宗でいう、禅である。道元的只管打座でもあろう。この観点から、英語の達人國広正雄も言及してはいるが、厳密な意味で、少々、それとも、ズレる意味でもある。以前にも言及したが、トマト嫌いな子供に、毎日、2流、3流のトマトを与えて好きになるまで待つ、一方、超高級なトマトを、食べさせる、また、超一流シェフに3流トマトを料理してもらって、我が子に食べさせる、これこそ、悪しき帰納法と私のいう演繹法の違いでもある。

 いっぱいやって、いっぱい聞けて、いっぱい喋れて、英語ができる、一昔前の英会話学校のCMコピー、プロゴルファー石川遼もやっていた、聞くだけで喋れるようになる教材、こうした手法こそ悪しき帰納法の典型なのだ。この延長線上にあるのが、スマホで、AIを教師に、空き時間のゲーム感覚で、英会話を鍛えようとする、コスパ・タイパかぶれの令和の若者の魂胆である。この手法は、日常英会話程度なら、少々の上達は可能でもあろうが、京大・一橋大の和訳の二次問題などは、一生読み込めないし、和訳するのは困難なのだ。当然、商社マンやメーカーの海外営業担当者は、こんなスマホ教師では、いっぱしのビジネスマンなどになれるはずもない。

 では、よい帰納法とは、どういういうものか、それは、“演繹法のはしため”となる方法である。中世スコラ哲学の「哲学は神学のはしため」という言葉があるが、「帰納法は演繹法のはしため」ではないが、まず、ものごとの本質、中心の核を伝授してあげることである。まず揺るがない‘神’の如き本質を教授することが、肝要なのだ。特に、語学は、それが隠れた学びの王道であるにもかかわらず、誤解、認識されてもいない、いや、こなかった。文法第一主義が、学校文法の悪しき慣例として非難される典型的な“弱点”でもあろうか。これなんぞが、その本質も適当に教え、下手な鉄砲数打ちゃあたる的に演習につぐ演習、実は、教師は、<適当な本質>、<薄っぺらい、脆弱な文法基盤>{※具体的には、中学生における文科省検定英語教科書『クラウン』『ニューホライズンズ』の文法事項である!}を適当に教えて、後は、生徒の自助努力で、微調整なり、強化なり、補強なり、純度5~60%の金塊を、自身で、純度90~100%の金の、売り物になる延べ棒に精錬してくださいよ、と責任放棄しているようなものである。それへの見事な反動が、平成後半から、リクルートにスタサプでカリスマ講師となった関正生の業界での認知度の急上昇に結びつくのである。自校、自塾での教師・講師が、不純物の多い、自身で精錬しなければならない学びの実体に気づいた高校生が、めちくちゃ教育現場に跋扈する証でもある。現場教師が、真の本質を教えられない、教えていない証拠である。

 余談ではあるが、この関正生氏の書いた、京大の過去問の解説でさえ、私には、編集者の目線で、もどかしさ、また、準秀才には、少々不明な解説であるな!といった“不完全さ・不徹底さ”が目に付く。解説のアラというものである。こここそが、本による独学の限界が浮上してくる点なのである。地方の県立高校の準秀才以下が、青チャート、赤チャートで数学に挫折する、知る人ぞ知る、数学挫折組の、有名なエピソードが彷彿されてもくる。

 今年初めて、弊塾から京大に合格した生徒がいるが、この京大の和訳問題を、明瞭に読み解ける英語のコアを、弊塾では伝授している。恐らく、弊塾のプリント教材を、どこかしらの目利きの参考書出版社担当者が目にしたら、是非、本にしたいと、願い出る、それほどの超自信作でもある独自教材なのだ。弊塾のキャッチコピー「大手の予備校で教える以上の高度の内容を個別形式で教える塾」というもの、だてではない、はったりでもない。そこに淵源がある。その、京大に合格した生徒は、高校3年の夏休みの間、武田塾から人気が波及した『ポレポレ』(西きょうじ)という問題集やってみたそうである。その生徒の弁「英文を和訳するのですが、解説が、英精塾で習ったこと(読むための真の英文法)を身についていなければ、あの解説を読んでも、どうしてその和訳になるのか、MARCHレベル~早慶レベル志望の普通の高校には、曖昧過ぎますね!」と批評的に、私に語ってもくれた。そうなのである、巷の人気参考書でさえ、英精塾の授業をうけると、その名著とされる参考書のアラが見えてくるのである。英精塾の観点から、目線から、参考書や問題集を選ぶ、そのテキストの目利きにもなるというのが、弊塾生の特徴でもあろうか?そうならない生徒は、本望の大学へは進学できない傾向が強い(笑)。

 こうした、解説の飛躍、その本質に言及しない参考書を武田塾では、推奨し、独学でやらせているわけである。フランチャイズの名目で、拡大路線のビジネス第一主義の営業塾の限界を、世の、高校生や親御さんはご存じない。設立者林尚弘の推奨する、いい(?)参考書を何回も反復して、それをものにすれば合格できるという、参考書第一主義という悪しき帰納法の典型、それが、武田塾の正体でもある。林氏自身の自己の成功体験と巷の脱サラお父さんなどを塾長に据える営業で、不登校的、集団塾・個別塾にキャラ的に馴染めぬ独学高校生を、ターゲットに“教えない塾”を錦の御旗に新興宗教のように、拡大して、“成功している”模様である。賢い親は、まっとうな子は、そんな大金払わねばならない教えない塾なんぞには、見向きしない。武田塾の手法は、成功者{独学が水にあると思っている信者}には、そう見えないが、実は、“悪しき帰納法”の典型なのである。予言しておこう、あと十年くらいすれば、この武田塾は、消滅しているやもしれない!

 独学で、また武田塾で、仮定法を習得した高校3年生、一方、高校なり、予備校なりで、教師や講師ら、リアルで、口頭で、仮定法の本質を取得した高校3年生、この両者に、後輩や弟妹に、仮定法の授業をさせてみよ、個別に勉強を教えさせてみよ、そうした指示を出して、事実そういう模擬授業をやらせれば、私の言説は、正しいことが見事に証明されもしよう。

 学ぶことは、教えること。教えることは、学ぶこと。リアルなる面授面受である。この真実に逸脱している、逆らってもいる手法が、悪しき帰納法でもあり、武田塾の“教えない塾”の実態である。事実、独学が困難な理系科目、数学や物理、そして化学など、武田塾方式で、早慶以上の東大京大の問題を解ける域に達した高校生がいたとすれば、それは、天才であることの証明でもある。実際、そうした生徒は、そもそも武田塾ではなく、無料の図書館などで勉強している。データは、公表してはいないだろうが、武田塾の9割近くは、文系の生徒であることは、想像に難くない。

 余談であるが、武田塾方式とは、「聖書はすばらしい!是非、独力で読み切って、クリスチャンなりなさい!」と、だだ、書物を薦める行為であもある。ある迷える人、そこには、神父なり司祭なりが介在して、その聖書の中のすばらしさに、刮目するのである。教科書にも、参考書の名著にも、6~7割の準秀才以下の高校生には、そのリアルの指導者というものが必須なのである。「親はなくても子は育つ」の如くに、「教師なくても生徒は(学力)伸びる」というわけにゆかぬのである。学校、塾が、そして予備校が存在する究極の意義がそこにある。


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