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HOME > コラム > 消費税10%と共通テストは亡国への一里塚
コラム
消費税10%と共通テストは亡国への一里塚
経済学者は、世を、自らの学問を眼鏡に経済を概観する。法学者は、時代を、同様に、法制度や人権を通して分析、そして状況を裁断する。文学者、いや、作家は、自らの嗅覚を通して、時代を描く、時に、問題点を剔抉する。こうした知的生業者は、自らの知性と感性で、世の中の羅針盤を、大衆に提示する。
一方、政治家という部類に属する人々はどうでろうか?彼らには、専門というものがない、あるとすれば、党利党略といった政局か、矮小なる名誉心がエネルギーになっているに過ぎない。“政治家とは、国家第一の下僕なり”と公言しながらも、口とは裏腹な、非カタギ的情念のカタマリなのである。元アスリートや芸能人はもちろん、二世、三世議員も同様である。元官僚も、今注目の国民民主党の玉木雄一郎にしろ、国民のため、国民の生活のためと言いながら、実は、政局で、政治的利害関係で、動いている。「国民のために汗をかきたい」などとほざく選挙中の候補者も、議員生活の安楽さを求める強欲が根底にあるのは国民もお見通しである。よく、女子アナやアイドルが、スポーツ選手や青年実業家と結婚する際、「価値観の一致」「尊敬できる方」「性格に惹かれました」などときれいごとを口にするが、生活の安定、セレブの生活を内奥に秘め、口にはできない。人間共通の、普遍的本音とも、政治家の言説では一致する。三原じゅん子、今井絵里子、生稲晃子などは、“政治”と結婚したようなものである。
教育とはどういうものか弁えている学者や知識人が、政府の諮問委員会や、国会議員になると、教育に関する洞察力とまでは言うまい、教育への眼力、教育行政の問題点へ鋭い指摘が、鈍くなる、超甘くなる傾向は、政治という魔物は、理想、いや、本道というものより、耳あたりのいい、目先の利益、大衆受けしやすい政策に流れる、迎合する、そうした愚策を打ち出してしまいがちなのである。消費税減税を頑なに拒む自民党の気質とは真逆のものである。教育政策は、駄々こねる我が子に何でも与えるバカ親に映る。この点、高校無償化などは、その教育的ポピュリズム以外の何物でもない。高校を無償化化するくらいなら、幼稚園義務教育化にした方が、どれほど、国家、小学校、中学校といった義務教育への援護策となるか!財務省と文科省の、自民党議員への影響力の差であろう。前者は与党が頭が上がらない、一方、後者は、与党が頑固おやじになりえる弱小省でもある。
消費税を10%に引き上げた政策は、センター試験を共通テストへ改革した愚策とまったく同じものに思えてならない。安倍政権の最大のマイナス点は、教育政策にある、それも下村博文とコンビで、それを推し進めてきたその重罪を、今では誰も指摘しない。その消費税の10%を、国民の福祉や年金などに充てられないのは、共通テストなど実行しても、高校生の思考力・判断力・表現力など一向に向上しないのと同じである。それは、まさしく、小中高で、ほぼ準義務化されてもいる、英検の取得奨励(策?)に、ものの見事に比類してもいよう。
弊塾に、入塾のために、面談にこられる高校生など、英検2級を保持する高校1年生でれ、高校2年生でも、簡単な、英検3級レベル、本当は、英検4級レベレでもあるのだが、そうしたレベルの英文も口から完璧にでてこない、黒板に書いた簡単な日本語をきちんとした英文に、英作文できないのである。学校現場が節穴なのか、当時者の、英文法の、英検勉強自助努力へ責任転嫁である。また、その証拠で、中高一貫校において、“トレジャー”なる教材を使用しているそこそこの進学校の中三から高一の生徒でさえ、日本における学校文法の典型、五文型の基礎知識がまったくできていない現実がある。生徒によく言い聞かせるのだが、英文法における五文型とは、化学における、“水兵リーベ僕の船…♪”として暗記する周期表(元素記号)のようなものだ、これを頭の中にいれておかなければ、化学がちんぷんかんなのと同じである、こう警鐘を鳴らすのである。
現今の、英語教育は、読み・書き・話し・聞くの4技能の標語のもと、英語教育の理想を追い求めすぎるあまり、全てが全て、その4技能が中途半端に終わっているというのが現状なのだ。この英語教育の実相が、文科省に見えていない現実は、自民党が、日本の経済低迷の元凶が、消費税にあることを存じあげていない{※実体は、ザイム真理教のいいなりなのだ!}のと同じことである。この消費税も、未来の日本のため、子や孫のため、などなどきれいごとの文言で、国民をまやかしている浅薄なる精神、いや、魂胆は、英検という実用英語試験を現場に奨励させれば、また、4技能を同時並行的に推進すれば、日本の中高生が、英語ができるようになるという、妄想・幻想を抱いている愚昧なる心根と同じものである。
前回言及した、「高校時代は、小さな完成品よりも、大きな未完背品を作る時代だ。」(阿川弘之)という文脈で申しあげると、平成後半以降、センター試験でリスニングが始まった頃から、高校生は、小さな完成品、いわゆる、高校3年までに、英検3級レベルの読み・書き・話し・聞くが、100%できればいい、そういった英語方針できた感が否めない。この阿川流で、英語教育を申し述べれば、辞書を使えば、英字新聞や雑誌、小説から論文まで、きちんと読み込め、一部不自然な表現があるにしろ、準アカデミックライティングができる、そうした書く能力、そして、少々不自然な発音、おかしい発音はしながらも、また、聞き取る能力は不完全ながらも、そうした4技能で高等教育にデビューするのが、英語能力の大きな未完品ということなのだ。まさに戦前の旧制高校、そして、昭和の40~50年代まではそうであった。しかし、後者の不完全な2技能は、大学に入り、目的や動機、自身の方向性が決まり次第、微調整できる代物なのである。それに対して、小さな完成品という英語を携えて、キャンパスに足を踏み入れれば、高等教育という名に値する学問など、夢のまた夢で終わる。物理や化学をやらず、いや、苦手のままで、理工系学部に進むようなものである。令和になって始まった共通テストの英語の配点を見ても、読解100点、リスニング100点、このいびつな構成は、英語ができない大学生を生み出す最大の元凶ともなるであろう。
放課後の、ある意味、前向きに英語を学ぼうとすう気持ちで、塾という小さな教室で、彼らと対峙していると、どうも、英語の授業は、古典の授業のようなものなれ下がってきている模様である。
では、次回に、近年の英語の授業の古典の授業化現象とやらを語ってみたい。
一方、政治家という部類に属する人々はどうでろうか?彼らには、専門というものがない、あるとすれば、党利党略といった政局か、矮小なる名誉心がエネルギーになっているに過ぎない。“政治家とは、国家第一の下僕なり”と公言しながらも、口とは裏腹な、非カタギ的情念のカタマリなのである。元アスリートや芸能人はもちろん、二世、三世議員も同様である。元官僚も、今注目の国民民主党の玉木雄一郎にしろ、国民のため、国民の生活のためと言いながら、実は、政局で、政治的利害関係で、動いている。「国民のために汗をかきたい」などとほざく選挙中の候補者も、議員生活の安楽さを求める強欲が根底にあるのは国民もお見通しである。よく、女子アナやアイドルが、スポーツ選手や青年実業家と結婚する際、「価値観の一致」「尊敬できる方」「性格に惹かれました」などときれいごとを口にするが、生活の安定、セレブの生活を内奥に秘め、口にはできない。人間共通の、普遍的本音とも、政治家の言説では一致する。三原じゅん子、今井絵里子、生稲晃子などは、“政治”と結婚したようなものである。
教育とはどういうものか弁えている学者や知識人が、政府の諮問委員会や、国会議員になると、教育に関する洞察力とまでは言うまい、教育への眼力、教育行政の問題点へ鋭い指摘が、鈍くなる、超甘くなる傾向は、政治という魔物は、理想、いや、本道というものより、耳あたりのいい、目先の利益、大衆受けしやすい政策に流れる、迎合する、そうした愚策を打ち出してしまいがちなのである。消費税減税を頑なに拒む自民党の気質とは真逆のものである。教育政策は、駄々こねる我が子に何でも与えるバカ親に映る。この点、高校無償化などは、その教育的ポピュリズム以外の何物でもない。高校を無償化化するくらいなら、幼稚園義務教育化にした方が、どれほど、国家、小学校、中学校といった義務教育への援護策となるか!財務省と文科省の、自民党議員への影響力の差であろう。前者は与党が頭が上がらない、一方、後者は、与党が頑固おやじになりえる弱小省でもある。
消費税を10%に引き上げた政策は、センター試験を共通テストへ改革した愚策とまったく同じものに思えてならない。安倍政権の最大のマイナス点は、教育政策にある、それも下村博文とコンビで、それを推し進めてきたその重罪を、今では誰も指摘しない。その消費税の10%を、国民の福祉や年金などに充てられないのは、共通テストなど実行しても、高校生の思考力・判断力・表現力など一向に向上しないのと同じである。それは、まさしく、小中高で、ほぼ準義務化されてもいる、英検の取得奨励(策?)に、ものの見事に比類してもいよう。
弊塾に、入塾のために、面談にこられる高校生など、英検2級を保持する高校1年生でれ、高校2年生でも、簡単な、英検3級レベル、本当は、英検4級レベレでもあるのだが、そうしたレベルの英文も口から完璧にでてこない、黒板に書いた簡単な日本語をきちんとした英文に、英作文できないのである。学校現場が節穴なのか、当時者の、英文法の、英検勉強自助努力へ責任転嫁である。また、その証拠で、中高一貫校において、“トレジャー”なる教材を使用しているそこそこの進学校の中三から高一の生徒でさえ、日本における学校文法の典型、五文型の基礎知識がまったくできていない現実がある。生徒によく言い聞かせるのだが、英文法における五文型とは、化学における、“水兵リーベ僕の船…♪”として暗記する周期表(元素記号)のようなものだ、これを頭の中にいれておかなければ、化学がちんぷんかんなのと同じである、こう警鐘を鳴らすのである。
現今の、英語教育は、読み・書き・話し・聞くの4技能の標語のもと、英語教育の理想を追い求めすぎるあまり、全てが全て、その4技能が中途半端に終わっているというのが現状なのだ。この英語教育の実相が、文科省に見えていない現実は、自民党が、日本の経済低迷の元凶が、消費税にあることを存じあげていない{※実体は、ザイム真理教のいいなりなのだ!}のと同じことである。この消費税も、未来の日本のため、子や孫のため、などなどきれいごとの文言で、国民をまやかしている浅薄なる精神、いや、魂胆は、英検という実用英語試験を現場に奨励させれば、また、4技能を同時並行的に推進すれば、日本の中高生が、英語ができるようになるという、妄想・幻想を抱いている愚昧なる心根と同じものである。
前回言及した、「高校時代は、小さな完成品よりも、大きな未完背品を作る時代だ。」(阿川弘之)という文脈で申しあげると、平成後半以降、センター試験でリスニングが始まった頃から、高校生は、小さな完成品、いわゆる、高校3年までに、英検3級レベルの読み・書き・話し・聞くが、100%できればいい、そういった英語方針できた感が否めない。この阿川流で、英語教育を申し述べれば、辞書を使えば、英字新聞や雑誌、小説から論文まで、きちんと読み込め、一部不自然な表現があるにしろ、準アカデミックライティングができる、そうした書く能力、そして、少々不自然な発音、おかしい発音はしながらも、また、聞き取る能力は不完全ながらも、そうした4技能で高等教育にデビューするのが、英語能力の大きな未完品ということなのだ。まさに戦前の旧制高校、そして、昭和の40~50年代まではそうであった。しかし、後者の不完全な2技能は、大学に入り、目的や動機、自身の方向性が決まり次第、微調整できる代物なのである。それに対して、小さな完成品という英語を携えて、キャンパスに足を踏み入れれば、高等教育という名に値する学問など、夢のまた夢で終わる。物理や化学をやらず、いや、苦手のままで、理工系学部に進むようなものである。令和になって始まった共通テストの英語の配点を見ても、読解100点、リスニング100点、このいびつな構成は、英語ができない大学生を生み出す最大の元凶ともなるであろう。
放課後の、ある意味、前向きに英語を学ぼうとすう気持ちで、塾という小さな教室で、彼らと対峙していると、どうも、英語の授業は、古典の授業のようなものなれ下がってきている模様である。
では、次回に、近年の英語の授業の古典の授業化現象とやらを語ってみたい。
2025年5月19日 16:31