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英語の授業は古典の授業化している

 これは、推薦で大学進学する生徒の激増とも大きくリンクするのだが、平成後半から、令和にかけて、弊塾の授業から、また、入塾の面談から、現代の高校生の英語の授業の古典化現象が目に浮かんでくる、非常にリアルに現前化している様が気になることです。

 これは、どういうことかと言えば、「古典は苦手です、できません!」と公言しながらも、学校の定期試験では、ちゃっかり8割以上の高得点をとり、評定4、また、5といった成績をとる生徒の、勉強手法、学校の学びの実体である。それは、具体的には以下の事例に該当する。

 授業で習う、教科書に出てくる『源氏物語』の数ページのある場面を、数週間にわたり教室内で学習する。しかし、古典文法の本質、きちんとした古典文法など身についておらず、その品詞が何なのか、どう訳すのか、その古語の全体的意味は、そうしたものなどお構いなしに、その源氏物語のあらすじを丸暗記、そして、その試験範囲の現代語訳も「ここはこう訳していけばいいわけね!」と、まるで、ぶりっ子する就活生のマニュアルの如きに、定期試験の、あの難解な古文の解釈や和訳を、犬の調教のように自己に課して、その場しのぎで、内申の4や5をゲットする。試験後の、その知識の雲散霧消、その実体を言いたいわけである。こうした古典丸暗記主義の高3生は、いざ、河合や駿台の実力模試ともなると、まったくお手上げ状態となる。古文など、きちんと読めないという知的体質ともなっている。しかも、大学進学のための、一種踏み台で、その場しのぎをすれば用済みの授業。付け焼刃の知識である。学校の古典の成績はいいが、実力模試では、まったく歯が立たないという、奇妙奇天烈な現象が生じる。実は、高校生の古典へのこうした向き合い方は、何も、平成や令和に始まったことではない。昭和世代の私も、高校時代は、令和の、こうした高校生ほどではないが、定期試験の、その『源氏物語』の範囲など、教科書ガイド(教科書の虎の巻とやらである)を頼り、その場面のストーリーを、あらすじ、人物関係など、把握理解し、そして、分からない、難解で、複雑な、品詞分解しなければならない、そして和訳・解釈しなければならない文などは、丸暗記して、その場に臨み、「これで試験範囲の古文は大丈夫ね!」と安堵しながら、中間・期末試験を何とか、その場しのぎで乗り越えた思い出がある。こうした勉強法ではダメだと気づかされてもくれたのが、浪人して通った駿台予備校の古文の講師の方々でもあった。現役時代はもちろん、宅浪時代も、古文の参考書など独学で読み込んでも、それだけの知力・理解力などなかったことが最大の原因でもあったでろう。しかし、こうした古典への向き合い方、対峙する学力など、令和の高校生も同じことが言えると思われる。これは、現場の高校の授業で、古典の優秀な先生に巡り会う確率と自身の古典への向き合う精神の前向きさといったものの僥倖がなければ、古典などという教科は、得意などもちろん、好きにすらならない。この学びの慣例は、英語や数学、理科や社会においても、大まかあてはまる。

 実は、この学校における、こうした古典という教科への対応の仕方、いわゆる、勉強の仕方といたものは、他の教科にも、悪しきように応用され、学校の、指定校に必要な、内申の点数を、<ぶりっ子学習でもぎとった偽装実力>といった、定期テストは抜群だが実力(模試)テストはダメといった気質・能力の高校3年生を、わんさか、大学へ送り込んでいるといった、悪しき現象が、近年の推薦者激増により大学生となった若者の正体である。
 以上のように述べてきた、勉強スタイルも、実は、英語にも顕著に表れてもいることを、誰も指摘しない。この典型は、英検取得主義の中等教育の風潮がさらに、それにわをかけていることである。

 現場で、実際に試してもいるので明白なのだが、英検2級保持者の高校生に、英検3級レベルの文法事項を必要とする課題文(日本語)を与えて、英作文させてみれば一目瞭然である。英検2級保持者に、自由英作文をさせることは、彼らの実力の範囲内で何とか、口頭なり、記述なりで、その場を凌げる英文は言えるのだが、こちらが課した日本文を、正しく英作文するとなると、またくお手上げ状態ともなる。現場英語教師は、実際に以下の例文を、英検3級以上を持っている中高生にやらせてみて欲しい。完璧にできる生徒は、そのタイトルホルダーのうち半分もいないであろう。むしろ、2~3割しかできない現実を知って瞠目することだろう。

 「トムは誰が好きですか?」「アリスです。」

 「誰がトムを好きなのですか?」「アリスです。」


 これができない最大の理由は、学校で五文型なる項目を教え(習い)ながらも、市販の問題集や参考書であれ、その五文型の単元の演習の中で、疑問詞{when/where/who/what/why/how}が含まれた問題が皆無といっていいほど存在しない、また、生徒は、疑問詞にもS・O・C・Mになり得るという認識がない、つまり、現場教師が、五文型の単元で、今まで学んできた英文{中1から中2の半ばまでの英文}を総括する意味でも、その五文型の存在意義に言及しないことが最大の原因でもあろう。事実、弊塾で、入塾の面談の折、この例文を黒板に書き、その中3生や高1生に言わせてみると、以上の現実が露呈するのである。これも、現場教師の、英文法への俯瞰図、“木を見て森も見る”・“森を見て木も見”という教え方をしていない現実が浮かびあがってもくる。これは、家庭教師のトライや明光義塾などの大学生を講師として経営している個別指導塾では、最大の弱点ともいえる側面である。ましてや、大勢で授業を行う大手予備校や映像授業(東進ハイスクール。河合塾マナビスなど)では、同じように言い得る死角ともなっている面である。

 現今の現場英語教育は、こんなものである。それに、英検取得を奨励すれば、自発的に英語学習(※理想とされる四技能)をし、彼ら、彼女らが進んで、それだけの実力{中学レベルの英語力・高校レベルの英語力}をつけてもくれるだろうと、他力(英検)本願の、現場教授放棄(塾や予備校を頼れ)、ある意味、教えない英語教育(文科省の理想)というものが、英語の実力の“骨粗しょう症現象”をもたらしてもいる実体は、学校現場の古典の授業をしても、ほとんどが古典など読み込めない高校生を、名ばかり成績いい高校生(一般入試を恐れ回避し、推薦で大学へ行こうとする生徒)を生み出す悪しき趨勢と全く同じものである。

 学校では、古典の授業を、理解不十分ながら、丸暗記で、80点以上の点数を取り、現場教師は、その生徒に4以上の内申点を与える。そんな、古典の4や5など、予備校の模試でもやれば、化けの皮が剝がれる。こうした学びの、悪しき慣習が、実は、英語という教科にも波及している実体は、学校で、ある単元を、一学期でやっても、その単元を中間・期末で何とかしのぎ、80点以上ゲットした後は忘却の彼方へ消え去るのである。二学期、三学期ともなると、表面的な実力(一学年から二学年下のレベル)にリバウンド減となってしまう顛末とやらは、推薦制度の波及・台頭が大いに悪影響しているか!と指摘する者は皆無である。指摘する者は、勉強・勉学・受験・学問というものを骨の髄まで知りつくしている、一部の賢者{和田秀樹・林修など}のみであろう。

 事実、慶應大学の日吉のキャンパスを闊歩している大学生の、譜代(中高の附属上がりの内部生)と外様(大学入試を経てきた外部性)と見分けるリトマス試験紙は、英語である。内部進学者と外部進学(推薦入学は除外する)の、最大の知的キャラの違いは、英語力にあるという、真実に近い実体であることは、附属校上がりの大学生の隠れた有名は事例でもある。但し、高校時代の勉学以外の要素は、実は、大学以降に伸びしろがあるとも言われ、内部生にも、いや、内部生だからこそ、アメリカの大学生のように、知的側面で急上昇する者が少なくないのも有名な事実である。
 


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