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スペシャリストかゼネラリストか?~高校生ヴァージョン~

 ここで、一つ命題をあげてみよう。「高校生は、広く浅くのゼネラリストは不向きである」というものだ。この文脈で、国公立受験より、私立受験の方が、思春期の高校生には、当然ともいえる、文科省・学校当局の価値観を否定するものに帰着する。それには、それなりの奥深い論拠というものが潜んでいることを誰も指摘しない。断ってもおくが、この文脈には、一芸入試やSFCの自己推薦枠や東大100名のみの推薦枠は含まない。あくまでも、5教科の文脈でである。

 社会人には、よく言われることだが、スペシャリスト(専門職)になるべきか、ジェネラリス(管理職)になるべきか、そういった問いを、中高生においても投げかけてみたい。

 こうした問い自体は、近年、考える力だの、思考力・判断力・表現力だのと共通テスト導入で、従来のセンター試験以上に、理想を追い求め、中等教育の段階での、知識、基礎知識を二の次にする感のある方向へ、靡いているようで仕方がないのである。これは、文科省は当然、反論するでもあろうが、高校生のゼネラリストの育成、養成である。歴史総合など、一見、社会人から見ると良きように見えながらも、現実、教師を含め、現場、高校生の頭の中は、大人の文科省の改革通りには、進んでいない実状が垣間見えてもくるからである。

 数学の共通テストの問題も、“現代文の読解力”のフィルターを通さないと、純粋数学ⅠA、ⅡBの本問にはたどり着けない形式、“数国複合問題”となってしまった様も、その典型でもあろう。果たして、大人の世界の理想、それは、時代の流れ、デジタル時代という大義を名分として、教育改革が推進されていること、その趨勢に違和感を禁じ得ないからでもある。

 子供時代は、やんちゃ坊主で、いたずらや遊び第一、勉強第二、これが、初等教育のモット―でもあろう。そうした幼児気質から、いち早く抜け出し、進学塾に通った者が、中高一貫の進学校に進める、その通行手形であることは有名な事実である。そうである。小学校時代に、どれだけいち早く、こましゃくれた、とっつあん坊やに変貌するか、それが、中学受験から小学校受験にも言い得るお受験の鉄則でもある。スポーツであれ、習い事であれ、その狭い領域に夢中になれる情熱を、国数理社という4教科に拡大特化して、猛勉強をする。ここにおいても、初等教育の“プチエリート”は、学びの、ある意味、ジェネラリストにならざるを得なくなってもいる現実がある。この初等教育の風潮に、横やりを入れて、是非を述べるつもりは毛頭ない。

 ご存じかもしれないが、小学校の社会科は、中等教育ともなれば、歴史は日本史・世界史と、地理は、世界へと範疇を拡げ多岐にわたる。政治経済、倫理社会と、もう、大学で学ぶ知識の準専門性が求められる。つまり、高校では、ベースとなる深い知識は、二の次に、科目の横断的学びを現場の高校生に強いているである。これは、一般社会人に求められる教養に近いものであり、研究者には、当然の歴史的知識なのだ。しかし、年端もいかぬ、まだ、大学生以前の、知的未完成人間に、これを求めるは、ハンバーグや焼き肉が大好きな小学生に、高級フレンチや老舗の日本料理の味が分かれというに等しい、角を矯めて牛を殺すが如き政策であると、誰もが口にしようとしない。

 小学生に、幕の内弁当と焼き肉弁当、シウマイ弁当のどちらが好きかとアンケート調査をすれば、ほとんど(小学校から高校まで)の子供から少年は、後者を選ぶことであろう。子供は、好きなもの、好きなことを見つける、それに猪突猛進、わき目も振らず、その対象オンリーとなる気質を有する生き物なのだ。こうした、習性のある子供は、カレー、ハンバーグ、スパゲティと、家庭料理の延長線でもある、大方味が濃くて、世代を超えて、最大公約数的な美味しいものに食は偏るものである。学びとて、スポーツとて、同じことである。これは、小学生に、算盤、習字、英会話、そして進学塾の四拍子(四技能)を課すことは、不自然でもあり、長つづきはしないのと同様である。サッカーと水泳などの二拍子(二技能)も、どちらかに集約して、選択して、その才を伸ばしてもゆく。

 こうした習い事の四技能などは、英語の授業で、四技能などは、歴史総合で、それぞれ、現場高校生に強いているというのが、私の観方なのである。

 こうした、最近の、中等教育における教育的風潮は、理想を追い求めて、実は、広く浅く学べばいいという実体になれ下がっていると、私の目に映って仕方がない。これは、高校時において、スペシャリストではなくジェネラリストを生みだす方策に思えて仕方がない。スペシャリストは、その本人の主体的趣向に基づいた、それも意図的に、真のジェネラリストは、意図的には生み出すことができない、ある意味、精神的成長と比例しなければ育たない種族でもあるというのが私の持論であるからだ。なぜならば、ゼネラリストとなるには、必要条件として、その一つか二つくらいの専門性に立脚した経験というものが求められる、そして十分条件としては、ある年月、いわば、年齢というものが下支えするからだ。スポーツを含めリーダーたる者、こうした条件を満たした人間がおおかたなるものだ。このスぺシャリストからゼネラリストをたかだか、中等教育の6年間で育て上げようとするのが、近年の教育改革の実体なのである。

 スペシャリストとは、知識の総体であり、ある領域の完成品である。その方面における戦術家である。ちょうど、プロ野球におけるコーチ(打撃・ピッチング・守備など)のようなものだ。それに対して、真のジェネラリストとは、知識を有機的に結びつける知的大局観であり、その方面の戦略家である。野球の名監督ともいえる存在なのだ。プロ野球の監督は、野手出身もいれば、投手出身もいる。その専門性から、引退後、コーチ、そして監督となる。科目における“”のような存在を、たがだか17才近辺で涵養するというのが、その試金石ともいいうるものが、今般の大学入学共通テストの正体なのである。

 私に言わせれば、まだ20代の現役バリバリの投手に、打撃論、守備論などを教えるは、丁度、日本史や世界史も発展途上なる高校生に、歴史総合を教えるに等しい愚策でもあるということだ。これを、大学の文学部、歴史学科においてやるは、当然であり、本筋でもあろう。
 私の論とは、こういうことだ。日本史でも、戦国時代や幕末など、歴史好きの少年少女に人気のある領域に興味関心を持たせることが肝要だ。世界史でも、中国では、キングダムに象徴される古代、また、三国志時代など、人間関係が、現代でも、実社会でも使えそうな事例に興味関心を向けさせる。歴史とは、洋の東西を問わず、まず、興味関心の領域を突破口に、その範囲を拡げさせることにある。信長の野望などのゲームから、歴女など、狭隘なる、オタク的知識から、歴史への学びの本能を呼び覚まさせることが現教師の勤めである。子供時は、食の片寄り、好き嫌いがあっても構わない、そこから、あらゆる食に舌鼓する感覚を養い、少しでも、好き嫌いが減ってゆくように指導するのが、教師の力量というものである。実は、この力量を有する現場教師が少ないのである。あのゆとり教育というものが失敗した、最大の要因は、Mr文部省寺脇研の理想をくみ取り、実践できる現場教師が払底していたことと同じなのだ。理念に、現場が追い付いてゆけないである。その証拠に、逆性的にもなるが、超進学校に限り、大学受験対策などやらず、公立高校と変わらぬ授業をしているという実体に近いものがある。

 現今の歴史総合なる科目は、社会人、いっぱしの大人からすれば、ためになる、面白い、そういう実感を抱かせる科目である。しかし、現場高校生、その歴史総合の、有意義性に気づいている高校1年生がどれほどいようか?私には、食べ盛り、成長期にある小学生に、高級幕の内弁当や一流懐石料理を与えているように思えて仕方がないのである。

 子供には、子供の味覚、食趣があるように、高校生にも、歴史の知識の片寄りがあってしかるべきだと考える。それは、知識があって教養があるように、知識なくして教養を身いつけよというに等しいのが歴史総合の実体なのだ。いや、同時並行で、知識と教養を取得させようとする困難さといってもいい。

 世は、多様化の時代、多様性を追求する時代である。校則も緩和され、制服もジェンダーレス化してきている。それなのに、初等。中等においては、自身の狭い学びなど許されず、学びの幕の内弁当~広く浅く~を強いられる、おかしな時代ともなっている。これは、歴史のみならず、英語教育の4技能でも同様である。英語の4技能なんぞは、一昔前の斜陽期のスーパーにも類する愚策である。何でもあるが欲しいものがないという量販店、四技能という全てを学習し、全てが全て中途半端になっている様は、現在の高校生の英語力を知っている教師ならば得心できるはずである。世は、専門性が求められている。ドラングストアー、家電量販店、ファーストファション店、食品スーパーといった専門店が勝ち組である。人間も同様である。何でも幅広くやって、すべてば使い物にならないという教育は、国を滅ぼす。

 結論を言おう。高校生は、真のジェネラリストにはなり得ない発展途上の人間である。それなのに、似非ジェネラリストを作ろうとしているのが、文科省の政策である。すべての教科が、“幕の内弁当”化しているのがいい見本である。似非ジェネラリストならば、似非スペシャリストのほうがどれほどマシであるか、それを知らない御仁は、政治家に多い。
 余談ではあるが、三冠王を三度とった落合博満の弁である。

「野球であれ、サッカーであれ、将棋であれ、その道で大成した人間の吐く言葉は、全てのジャンルにも普遍的説得力をもって、心に響いてくる」



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