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➁自然・アナログ・デジタル~移民の親子~

 デジタルネイチャーという言葉がある。生まれた時から、デジタルが身の回りにあり、その器機なりをすぐに自在に操れる世代である。Z世代がまさしくかぶる。次に、デジタルイミグラントというものもある。大学生、また、社会人になってからデジタル器機のスキルを取得した世代である。それ以外は、アナログ世代と括られる。

 アメリカ移民の親子などで、途上国から移住して、その子供世代が、アメリカ英語をすぐに身についてしまう事例は有名である。それに対して親の世代は、母国語が邪魔をして、思うように英語が話せない、書けない事実も有名である。子供世代は、自身の出身国の母国語など小学生段階では、すぐに忘れ、アメリカ人と同じように、公私(学校と家庭)にわたり、英語で生活を送るようになる。一方、親世代は、仕事、つまり、会社や社会の中では、必然的に、英語を余儀なくされはするものの、家庭内、地域社会(コリアンタウンやチャイナタウン)などでは本来の母語を話すという実態がある。子供世代にとっては、生れた国の言語なんぞは、非日常の言語、夢の世界の言語で、自身の生活内で一切使用しない。親子のコミュニケーションでのみである。その親子であっても英語で行う家庭も少なくないともいう。それに対して、親世代は、家庭内や出身国の人々が群がるコミュニティでは母国語を使用する。もし、その移民の家庭が三世代であれば、その祖父は、英語の習得など遅々として進まず、アメリカ社会では、仕事も半リタイアの状況の中、孤立、時に、疎外感の中の置かれる実体は想像に難くない。

 こうした移民と英語との相関関係は、今でも、定説ともなっている事例であり、地理的真実として有名である。これを、歴史的真実として、文明の進歩という観点・基軸で捉えたものが、デジタルネイティブとデジタルイミグラントともいえようか。

 時代は、デジタルネイティブにとっては、スマホ一台で、勉強から娯楽、遊び、すべてが賄える現実が到来した。生の自然体験、リアルの美術館、大きいスクリーンで観る映画、こんなもの、小さいスマホ内でヴァーチャル空間で用足りる。一昔に街中のいたるところにあったゲームセンターから、スマホ、また、任天堂やソニーのゲーム機へ、バーチャルの娯楽快感を味わう世代への移行である。当然、弱視、視力が1,0以下の小学生が8割以上という実体も納得がゆく。彼らには、アナログの良さ、利点はもちろん、自然の、アウトドアの魅力もわかっていないだろう。自身をとりまく生活空間が、移民の子供が英語さえできれば楽しいように、デジタルさえあれば、自由自在に扱えれば、それで“幸福感”を感じとれる世代なのである。そうは、言っても、東京ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパン、また、自身の好きな歌手、アーティストのライブには足繁く通う習性は残存してもいるようだ。リアル感の充実感・その魅力は精神に残存しているようである。

 一方、デジタルイミグラントの40代以上の親の世代はどうであろうか?当然友人関係の延長ともいえる親子関係にある、その父親は、我が子にセンスを合わせるのか、同調するのか、我が子と同じ時代感覚を持ち、親子関係の絆を強化したいのか、一切合切が、アナログを放逐してしまった父が散見されもする。我が子と、デジタルで、時代とシンクロナイズドするのが快感、悦びのご家庭はそれでいいとしよう。会社でDX、学び直し、こうした慣例を自身の家庭内にも持ち込んで、それで良しとするは、これも、オールド“デジタルネイティブ”とも言えようか。問題は、自身のデジタルと共存しても、その幸福感の有無なのだ。畢竟、生の充実感とも言っていい。これさえあれば、世の、デジタル化の一切の異議申し立てなどはさむ余地がないのが、スマホをいじって視力がなくなろうが、煙草を吸って肺がんにあろうが、その人の自己責任と弁えている人生観と同じものである。

 現今の、デジタルファシズムの世の中、こうした状況が、客観的に、俯瞰できない生活に置かれてもいることだ。
 ソフトバンク、アマゾンの論理を、自己の人生90年に合わせる不自然さ、不合理さと私には目に映るのだが、それを人生の是、生き方の是としている者は、昨日の参院選で、SNSで情報を得て、その候補者に投票した者でもあろう。
 私が問いたいのは、この我が子世代が、デジタルという流儀を、空気同然で生活していることなのだ。また、時代は、大方、タバコを吸わない、お酒を飲まない若者が増えていながらも、こうした肉体的側面の不健康を蛇蝎の如く軽嫌いしながらも、自身の眼を弱視に追いやるデジタル器機を遠ざけようとする傾向が世の風潮に見当たらない現実だ。こうした時代の流れというものは、必然で、ちょうど、数百年後の未来の地球人の顔が、まるでSFでよく見かける火星人・宇宙人のように、アゴが劣化・退化して尖がっている様の未来人間の現出同様、モノを噛むという食事の習慣から、まるで、NASAなどが開発した宇宙流動食のために、肉体的退化同様に、AIの苛烈なる進歩により、生物としての精神の劣化と私には映ってもくるのは、杞憂だろうか?(つづく)


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