カテゴリ

HOME > コラム > 自由と規律~母語と外国語~

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る

自由と規律~母語と外国語~

 どんな言語にも、英語にしろ仏語にしろ、当然、日本語にしろ、外国語の要素のない言語などない、そういってことばが多様化してきた。この意味するところは、言語というものは、それぞれ他の言語の影響を受け、また、その概念などを取り入れて進化もし、豊饒なる人間の社会ツールともなってきた文化の代表でもあろう。科学発展と二人三脚で、成長しもきたホモサピエンスの武器なのである。モノという文明が流入し、コトという文化、いわゆるその国の言語を耕してもきたということである。

 ここで、自由と規律をキーワードとして、それを、12才まで習得してきた、母語としての日本語、また、12才から学習してゆく、外国語、即ち、英語とやらを比較すると、面白い、人間の内面の相貌が浮かび上がってもくる。

 母親から習う、いわゆる母語、日本語は、文字以前に、まるで自身の手足のように、空気の如きに、意識せずとも、ある程度、自在に用いられるようになる、そして、幼稚園児のひらがなという文字の入門期を経て、初級レベルの小学校からは、常用漢字を身に付けてゆく。話し言葉と同程度の文章が書けるまでになる。一般的には、その後人生を歩むには、それで十分なのである。事実、戦前の教育(尋常小学校)などは、それで社会に巣立っていった少年少女が大半でもあった。

 戦後教育で、中学校までが義務教育となり、そこに英語という教科が介入、出現する。私なども、小学校時代、ローマ字程度は、ぎこちなく片言で書けもしたが、実際は、あやふやなローマ字リテラシーでもあった。英語など、一切やってもいなかった。これが、中学生になるや、英語という、一応、“一番大切な教科”という意識、自覚のもと、勉学へと歩み出した記憶がある。

 そうである、自由自在に、主観的という次元でだが、日本が操れるのに、中等過程の義務養育で、英語という外国語に直面する。まるで、1853年の黒船来航の如き、内面における、文化的ショックが襲ってもくる。それは、中学時代、もどかしさ、きゅうくつさ、まるで校則による身だしなみ検査のように、自身をことばでしばる隔靴掻痒の学びの経験である。文法体系の全く違い、指示する名詞の意味概念の齟齬、そうした経験は、まさしく自身に<言語の規律>として強烈に自覚されてもきた。

 これは、その後、大学生になって気づくのだが、現代人が用いている漢字・ことばの大半は明治時代に明六社の学者が作り上げ、その後、明治・大正の作家などによる言文一致を通して、現代の日本文が生まれてきた経緯というものが、外国語、特に、英語を分母として、日本語が分子として成長進化してもきたことを痛烈に自覚されてもきた。これは、戦後、洋楽のロックを日本語にどう定着させるかの格闘と似たものがある。“はっぴいえんど”から“サザン”まで持ち出すまでもなく、洋楽のメロディとリズムに母音中心の日本語をどう乗せるか、はめ込むのか、その相克が、日本語の成長ともかぶる。明治の日本画が、洋画の流入により、岡倉天心の四天王により、ある方向性が生まれたのも同様でもある。印象派から朦朧隊が生まれた絵画史の流れにも比肩しうる。

 言語、小説、音楽、絵画にしろ、外国文化の流入が、自身の日本文化に衝撃を与える、霊感(インスピレーション)をあたえる、時に、“挫折感”をもたらす、その原体験というものが、鎖国から開国への明治初期から中期の知識人の苦悩とでいいえるもので、日本社会は、一応は、ステップアップした、脱皮した、そして、次の文明のフェーズへと移行もした。国家レベルの、他の文明国との邂逅が、どれほど日本民族にとって不自由なもの、不快な経験、不便な脱皮であったか、それこそが、文化次元の規律という箍として、のしかかってもきたのである。その経験こそ、一個人、一人間、一人生レベルでいう、母国語から外国語へ、そうした言語体験と同類のものなのである。

 外国語、英語を学ぶ一つの大切な意義とは、自身の用いる言語に、<自由と規律>という両側面の覚醒をもたらすことにある。それは、乗り物の喩えではないが、アクセルとブレ―キの存在意義にも比類していよう。また、話しことばと書きことばの関係でもある。ことば、とりわけ、文字を覚える意義、それは、概念を自覚する効用でもあり、人間の感情に箍をはめこむ行為でもある。無意識に用いがちなことばというものは、パトスとロゴスで構成されている真実に目覚める経験は、原子が電子と中性子で構成されていることを中学の理科で知った知の目覚めと同じものであろう。

 英語という、不自由な、日本語の体系(太陽系:我々の銀河系)とは、また別次元の言語体系(マゼラン星雲など他の銀河系)を強烈に自覚し、そこから自身の日本語体系を概観するは、中学数学から小学算数を考えるのに等しい知的営みであり、他人の気持ち、立場になってものごと慮る、倫理的態度とも通底していよう。

 中学以後に、英語を学ぶ最大の意義とは、言語的次元での、人の振り見て我が振り直せともいいえる、倫理的精神を涵養するという、学習者の無意識的深層心理の自覚にもあると公言する者は少ない。



< Prev  |  一覧へ戻る

このページのトップへ