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アーティストちゃんみなの言葉

 「高原に蓮は咲かない」
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」

 先日12月7日、日曜の初耳学(TBS)という番組で、アーティストちゃんみなのインタビューを観た。
 その外見から、想像できない言葉が発せられた。人は見かけによらないとか、真の姿は見た目では判断できないとか、そういった格言を強烈に感じさせるものだった。

 まず、彼女は言う。“自由に生きるための考え方”の基底をなす心得のようなものだ。

 「自由なことをするためには<型>にはまらなきゃいけない。それでやっと自由が手に入る。」
 

 それに続けて、次のようにも言う。

 「基本、軸、幹、根っこがないと応用ができない。」

 この二つの言葉から、標準的な学力の高校生が、自身が基礎が脆い状態で、応用や難位度の高い問題へとチャレンジする心根にも警鐘となるものだ。こうした学力の基盤が弱い生徒に限り、基礎と基盤とを勘違いしている者が、何と多いことだろう。一般的イメージでは、基礎は易しい、基盤もそれに類すると混同しているとうことだ。この基盤とも言い得る基本から根っこにかけては、反復による反復を経て、自身の型として定着させることが肝要だと彼女は言いたいのである。

 この番組のインタビュアー林修氏は、こうした、ちゃんみなの発言を聞いて、次のような感想を述べている。

「自由や個性が尊重される時代だけれども、オーディション参加者に型が大切だっておっしっていたのが印象的ですね。」

 「無知、自由とは反しているが、無知が一番怖い。」とも彼女は言う。

 うん~ん!唸らされる真実だ。世はSNS社会でありながら、スマホと通じて、若者は“無知”とは疎遠だと思い込んでもいようが、そうした表層的な無知ではない。もっと本質的は無知である。それは、“無知の知”ともいえる、徹底的に、軸や幹を確立する過程での、また、型を習得してゆく“確信・覚悟・心得”のようなものだ。禅僧における坐禅や庭掃除などのルーティンでもある。これが、Z世代の、ちゃんみなのようなキャラの表面だけにしか目が向かない、アーティストの卵への訓戒のようなものだ。ここにも、私がここ数回にわたって語ってもきた、“規律”という通奏低音が鳴り響いてもいる。この通奏低音が聞こえない、聞き取れない、聞こうともしない若輩層への警鐘なのである。あのロックのカリスマ矢沢永吉が語る人生論というものが、大衆(エリートビジネスマンから平凡なサラリーマンにかけて)に説得性をもち、共感される所以とも似ていようか。
 
 最後に彼女は次のようにも語った。

 「基本ができていないと自由にできない。芯がぶれないと何をしても大丈夫。面倒くさいことをやって、やりたいことが出来る。」

 これは、弊塾の授業のコンセプトでもあるのだが、ある文法の単元を教えていて、その単元の根幹、本質、それを独自の<型>として、生徒に自覚させる。いくら文法などの演習をしても、最終的に、その<型>をイメージ化できなければ、その単元を身に付けたことにはならない。典型的なのは、仮定法の単元などだ。長文を読み込んでいても、この“would”が仮定法の“would”なのか、そうではないのか、その瞬時の見極めが肝要ともなるが、その勘所は、この型というものに存するのである。

  以前に、本コラムでも語ったことだが、基礎と基盤とは違うということだ。基本という用語を、愚者は、“easy”と、賢者は、“fundamental”と認識している。この心持の違いが、芸や学力、また技能の本質な違いとして露見する。自ら向きあう領域を、鍛錬するジャンルを、凡庸なる先達の助言として、その基礎を、“easy”と誤訳するか、賢明なる先達の助言として、“fundamental=difficult”として翻訳するか、そのヒントとしても、このちゃんみなの発言は、大いに傾聴に値する。

 私のようなおじさん世代からすると、音楽性やダンス、そして化粧や衣装など、どう考えても、好みではないし、理解不能ともいえるパフォーマンスするちゃんみなというアーティストの吐く言説というものは、実は、なるど!幼児期、子供時代における、ピアノ、ヴァイオリン、バレーなどの芸事の鍛錬という種から派生しているものだったと知った時、やはり、当然ながら、こうしたクラシカルな習い事というバックグラウンドかあったればこその、「自由なことをするためには型にはまらなきゃいけない。それでやっと自由が手に入る」に帰着する、その起因関係も納得した次第である。

 人類がこれまで築き上げてきた文明の根幹をなす、規律という教育の側面、それを、初等・中等教育における、一種、<型>としよう、その<型>というものを、無視して、自由に、好きなことだけ、面倒なことを避け、気ままに学びの12年間を過ごさせれば、それでその子の個性が芽生え、育つものだと誤信している平成育ちの親がなんと多いことか?
 人類の文明の牽引的要素が、規律だとすれば、人類の文化の揺籃的要素が、自由ともいいえる。これは、車の両輪でもあり、アクセルとブレーキでもある。この巨視的観点から、微視的観点に、鳥の目から虫の目、魚の目の視点で、教育を語ると、人間の未成年という発育段階おける、<自由と規律>という観点は、<自由と型>、そして、<自由と基本・軸・幹・根っこ>というように考えようとする者は、少数派、いや、皆無になりつつある。これは、教育のデジタル化という波で、地球温暖化の危機に優るとも劣らない、人類の危機と感じている人は、アナログ族という烙印を押される。
 
 自由も規律が根底にある自由は、自主へと飛躍する。一方、その箍(たが)がない薄っぺらい自由は、自恣になれ下がる。


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