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HOME > コラム > 人間の地理学~人間の精神は地球環境と同じ~
コラム
人間の地理学~人間の精神は地球環境と同じ~
歌人俵万智の歌集『オレがマリオ』という作品がある。彼女は、息子が小学校2年生になったのを機に、自然豊かな石垣島に移住した。その初期の体験をもとにできた歌集である。その題名にもあるように、我が子の心的変貌ぶりを詠んだ短歌である
島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ
彼女が、引っ越してきて、ゲーム機で遊ばなくなった姿の我が子を問い質すと、彼は「オレが今マリオなんだ!」と応えてきたという体験から生まれたものだ。
脳解剖者の養老孟司が、以前次のような事を述べていた。
学校という場だけでも、せめてデジタルを排除すれば、むしろ、都会の中のオアシス、楽園、憩いの場ともなり、むしろ、不登校者や引きこもりといった子供たちの駆け込み寺のように、むしろ、学校にゆくのが楽しくなる。社会や家庭で、デジタルずくめの生活を余儀なくされている中、せめて、学校という場だけでも、そうしたデジタルの息抜きの場としていけば、少年少女の精神の衛生上、心の健全化が保たれもするのだが…。
以上の俵や養老の説を、これでもか、これでもかと力説したのが、弊著『反デジタル考』でもある。
今の世の中、生活の隅々にまでデジタルが行き渡っている社会だ。タクシー運転手から学校の教師、そして、親友代行業としての相談相手まで、AIというデジタルの権化が代わりを務めようとする時代である。
近年、人新生という言葉が、一般の人にも認知され始めてきている。人新生とは、人間の文明として利器、車、原発、プラスチック製品など、環境への悪影響を唱える用語である。20世紀後半まで、人間がどれほど好き勝手に、文明の利器を発明しても、地球環境など、影響度は微々たるものであった。それが、地球温暖化など、CО₂の排出など、便利さの代償で人間自身の首を絞めつける危険域にまで迫りつつある、その状況への警鐘の用語でもある。
外部の、環境という面では、人間は、その悪い面・悪影響はすぐに認識できる。しかし、内部の、精神への悪影響は、無自覚ともなる。他人の欠点には気づきもするが自身の欠点には気づかぬ愚かさのも似ている。この悪影響は、よく、車、飛行機、原子力を引き合いに出し、「新しい文明の発明は、新しい事故の発明でもある。」(ポール・ヴィリリオ)という狡猾な論理で、スマホに代表されるデジタル社会の到来を、仕方ないもの、必然で、その負の側面は致し方ないものとする知識人が多数派を占める現代である。しかし、そうした文明の利器の次元では、もはやないレベルで、人間のデジタル化、デジタルのしもべ化・奴隷化する人間を公言するものは、異端児扱いされる。こうした現代のデジタル社会の悪影響もたいしたことはないと、楽観視する派が多数を占める状況で、この精神における、人間の人新生、いわば、人間の地理学という側面で考察する派は、少数派なのだ。
これは、民俗学者宮本常一が、師渋沢敬三から賜った言葉で、終生大切にしていたものである。
「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。」
この言葉を援用し、今2026年という時代を概観すると、やはり、人間の地理学といった観点に立脚せざるをえない。そうした見地で、ものごとを考えたくなってしまいます。
世界レベルでは、世界自然遺産というものがある。日本では、国立公園や国定公園、また、京都や鎌倉などの景観保護地区といって、森林の伐採や高層建築物の制限など、概して環境、自然といった次元で、生態系から居住空間の快適性を守ってゆく政策が、国レベルで行われもいます。特に、日本列島の8割近くは山岳地帯ともいわれ、周囲がすべて海で囲まれてもいる、さらに稲作文化という歴史から、平地では、多くが水田地帯でもある農業国でもある。あの井上陽水の名曲“少年時代”に、昭和生まれの父から、令和の小学生まで、その曲に郷愁へ、日本の原風景が目に浮かぶ共通体験があるのは、こうした日本の風土によるものでありましょう。都会と田舎、都市と地方、この二項対立という原理は、人間と自然、人工物と非人工物、工業製品と手作り品、物質と精神、知と情、得に、人間だけが有する、食事のあとのデザート、汁粉のあとの柴漬けなど、甘いと辛い、春には秋を想い、夏には冬を想う、丁度、人類が夏季オリンピックと冬季オリンピックをスポーツのジャンルで生み出したように、子どもにとって厳しい父親と優しい母親があって初めて親の愛情を実感する、認識するが如く、二元論ではありませんが、こうした両面が必須なのであります。
こうした人間の内面に潜む、二面性というものの、つまりは、人間の心の勢力図、メンタルの勢力範囲、いわゆる、人間の地理学と敢えて言いましょう、この人間の地理学における、生来の生活上の二つの面の重要性は、誰しも意義を挟むことができないのは、ホモサピエンスとしての摂理でもあり、その生存基盤でもありましょう。ここで私が、指摘したいのは、この二原則の必要性が重々わかってもいながら、どうも、これを、デジタルとアナログの概念でくくるとなると、その人間存在の生きてゆくためになくてはならない、“生のインフラ”という観念が思い描けていないようです。地球の生態系ではありませんが、豪雨だらけの地域は、雨は迷惑ものです。豪雪地帯にとって、雪は厄介ものです。砂漠の人には、雨はありがたい天祐でもあり、赤道地帯の人には、雪国は“夢の世界”世界です。
よく儒学の基本概念、理想とする中庸なる理念というものがあります。現代、デジタルとアナログにも中庸という概念、理念が適用できるなら、この<中庸という文明の利器への徳>がいいたいのであります。政治文化では、中庸と宗とすべきではありますが、科学文明の世界では、中庸なる理念は、なきに等しいものになりつつあります。
GAFAM帝国が牛耳る21世紀、スマホが人間の身体の一部となりかけてもいるSNS社会、このグローバル社会≒デジタル社会という時代にあって、スマホが生の人間の内面にまで、デジタルが浸食している現象を、地球規模の温暖化と同じくらいに、世の知識人、科学者には、警鐘は鳴らされてはいません。
化石燃料で作られた電気の恩恵で、デジタル社会が動いている自覚から、人類は、その化石燃料以外の方策で、スマホやコンピュータの“エネルギー源”を生みだそうと模索しています。また、プラスチックによる海洋汚染などに覚醒し、その生産を土に返る原材料に切り替えようとする企業の取り組みも目に付きます。
しかしであります。これが、人間の内面のデジタル化ともなると、危機感は薄れます。せいぜい、オーストラリアの16才以下のSNSの禁止くらいの法案程度であります。これも、イジメや犯罪に巻き込まれない予防策程度のものです。根本的な、デジタル対策法案ではありません。私がいいたい、人間の精神を浸食する恐ろしさまでには、至っていません。せいぜい、デジタルデトックスという、デジタル断食程度で用足りとされています。アマゾン、楽天、ペイペイなど、キャッシュレス社会というものが、デジタルへの親和性を増長している様相は、eスポーツが、オリンピック競技に採用されても“別によくね~!”といった若者感覚を醸し出してもいます。
このような、デジタルの波及、デジタルの支配、こうした時代の逆行できない流れに対して、文明=デジタル、自然=アナログ、その中間にも位置している文化≒デジタル化という流れになってもきている。それは、人間の脳随、精神の勢力図として、人間の地理学として、個人個人が自覚するのは、ちょうど、自己の内面が、文明と自然、都会と田舎、住宅街・商店街と憩いの場としての公園、そうした存在として自覚する必要があるのではないかつくづく実感してもくるのは、前回の人間の歴史学ともパラレルの見方から生まれてくる、人間としての本能のようなものです。理性や知性といったものからではありません。
島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ
彼女が、引っ越してきて、ゲーム機で遊ばなくなった姿の我が子を問い質すと、彼は「オレが今マリオなんだ!」と応えてきたという体験から生まれたものだ。
脳解剖者の養老孟司が、以前次のような事を述べていた。
学校という場だけでも、せめてデジタルを排除すれば、むしろ、都会の中のオアシス、楽園、憩いの場ともなり、むしろ、不登校者や引きこもりといった子供たちの駆け込み寺のように、むしろ、学校にゆくのが楽しくなる。社会や家庭で、デジタルずくめの生活を余儀なくされている中、せめて、学校という場だけでも、そうしたデジタルの息抜きの場としていけば、少年少女の精神の衛生上、心の健全化が保たれもするのだが…。
以上の俵や養老の説を、これでもか、これでもかと力説したのが、弊著『反デジタル考』でもある。
今の世の中、生活の隅々にまでデジタルが行き渡っている社会だ。タクシー運転手から学校の教師、そして、親友代行業としての相談相手まで、AIというデジタルの権化が代わりを務めようとする時代である。
近年、人新生という言葉が、一般の人にも認知され始めてきている。人新生とは、人間の文明として利器、車、原発、プラスチック製品など、環境への悪影響を唱える用語である。20世紀後半まで、人間がどれほど好き勝手に、文明の利器を発明しても、地球環境など、影響度は微々たるものであった。それが、地球温暖化など、CО₂の排出など、便利さの代償で人間自身の首を絞めつける危険域にまで迫りつつある、その状況への警鐘の用語でもある。
外部の、環境という面では、人間は、その悪い面・悪影響はすぐに認識できる。しかし、内部の、精神への悪影響は、無自覚ともなる。他人の欠点には気づきもするが自身の欠点には気づかぬ愚かさのも似ている。この悪影響は、よく、車、飛行機、原子力を引き合いに出し、「新しい文明の発明は、新しい事故の発明でもある。」(ポール・ヴィリリオ)という狡猾な論理で、スマホに代表されるデジタル社会の到来を、仕方ないもの、必然で、その負の側面は致し方ないものとする知識人が多数派を占める現代である。しかし、そうした文明の利器の次元では、もはやないレベルで、人間のデジタル化、デジタルのしもべ化・奴隷化する人間を公言するものは、異端児扱いされる。こうした現代のデジタル社会の悪影響もたいしたことはないと、楽観視する派が多数を占める状況で、この精神における、人間の人新生、いわば、人間の地理学という側面で考察する派は、少数派なのだ。
これは、民俗学者宮本常一が、師渋沢敬三から賜った言葉で、終生大切にしていたものである。
「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。」
この言葉を援用し、今2026年という時代を概観すると、やはり、人間の地理学といった観点に立脚せざるをえない。そうした見地で、ものごとを考えたくなってしまいます。
世界レベルでは、世界自然遺産というものがある。日本では、国立公園や国定公園、また、京都や鎌倉などの景観保護地区といって、森林の伐採や高層建築物の制限など、概して環境、自然といった次元で、生態系から居住空間の快適性を守ってゆく政策が、国レベルで行われもいます。特に、日本列島の8割近くは山岳地帯ともいわれ、周囲がすべて海で囲まれてもいる、さらに稲作文化という歴史から、平地では、多くが水田地帯でもある農業国でもある。あの井上陽水の名曲“少年時代”に、昭和生まれの父から、令和の小学生まで、その曲に郷愁へ、日本の原風景が目に浮かぶ共通体験があるのは、こうした日本の風土によるものでありましょう。都会と田舎、都市と地方、この二項対立という原理は、人間と自然、人工物と非人工物、工業製品と手作り品、物質と精神、知と情、得に、人間だけが有する、食事のあとのデザート、汁粉のあとの柴漬けなど、甘いと辛い、春には秋を想い、夏には冬を想う、丁度、人類が夏季オリンピックと冬季オリンピックをスポーツのジャンルで生み出したように、子どもにとって厳しい父親と優しい母親があって初めて親の愛情を実感する、認識するが如く、二元論ではありませんが、こうした両面が必須なのであります。
こうした人間の内面に潜む、二面性というものの、つまりは、人間の心の勢力図、メンタルの勢力範囲、いわゆる、人間の地理学と敢えて言いましょう、この人間の地理学における、生来の生活上の二つの面の重要性は、誰しも意義を挟むことができないのは、ホモサピエンスとしての摂理でもあり、その生存基盤でもありましょう。ここで私が、指摘したいのは、この二原則の必要性が重々わかってもいながら、どうも、これを、デジタルとアナログの概念でくくるとなると、その人間存在の生きてゆくためになくてはならない、“生のインフラ”という観念が思い描けていないようです。地球の生態系ではありませんが、豪雨だらけの地域は、雨は迷惑ものです。豪雪地帯にとって、雪は厄介ものです。砂漠の人には、雨はありがたい天祐でもあり、赤道地帯の人には、雪国は“夢の世界”世界です。
よく儒学の基本概念、理想とする中庸なる理念というものがあります。現代、デジタルとアナログにも中庸という概念、理念が適用できるなら、この<中庸という文明の利器への徳>がいいたいのであります。政治文化では、中庸と宗とすべきではありますが、科学文明の世界では、中庸なる理念は、なきに等しいものになりつつあります。
GAFAM帝国が牛耳る21世紀、スマホが人間の身体の一部となりかけてもいるSNS社会、このグローバル社会≒デジタル社会という時代にあって、スマホが生の人間の内面にまで、デジタルが浸食している現象を、地球規模の温暖化と同じくらいに、世の知識人、科学者には、警鐘は鳴らされてはいません。
化石燃料で作られた電気の恩恵で、デジタル社会が動いている自覚から、人類は、その化石燃料以外の方策で、スマホやコンピュータの“エネルギー源”を生みだそうと模索しています。また、プラスチックによる海洋汚染などに覚醒し、その生産を土に返る原材料に切り替えようとする企業の取り組みも目に付きます。
しかしであります。これが、人間の内面のデジタル化ともなると、危機感は薄れます。せいぜい、オーストラリアの16才以下のSNSの禁止くらいの法案程度であります。これも、イジメや犯罪に巻き込まれない予防策程度のものです。根本的な、デジタル対策法案ではありません。私がいいたい、人間の精神を浸食する恐ろしさまでには、至っていません。せいぜい、デジタルデトックスという、デジタル断食程度で用足りとされています。アマゾン、楽天、ペイペイなど、キャッシュレス社会というものが、デジタルへの親和性を増長している様相は、eスポーツが、オリンピック競技に採用されても“別によくね~!”といった若者感覚を醸し出してもいます。
このような、デジタルの波及、デジタルの支配、こうした時代の逆行できない流れに対して、文明=デジタル、自然=アナログ、その中間にも位置している文化≒デジタル化という流れになってもきている。それは、人間の脳随、精神の勢力図として、人間の地理学として、個人個人が自覚するのは、ちょうど、自己の内面が、文明と自然、都会と田舎、住宅街・商店街と憩いの場としての公園、そうした存在として自覚する必要があるのではないかつくづく実感してもくるのは、前回の人間の歴史学ともパラレルの見方から生まれてくる、人間としての本能のようなものです。理性や知性といったものからではありません。
2026年3月 9日 16:42












