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欲から入って欲から出でよ➁

 「己を捨てて学問をすれば、自ずと己の生き方が見えてくる」『本居宣長』小林秀雄著


 以前、あるテレビ番組で、プロ野球400勝投手の金田正一が、次のようなことを述べていた。
 その番組の出演者が「高校野球って、面白いですね!彼らの青春をかけた勝負、甲子園でトーナメント方式、一回負けたら、それで終わり、真剣勝負で、泥まみれになって感動しますね!その点で、高校野球は、プロ野球より感動しますね!」

これを聞いた金田は、次のように、語気を荒げて反論した。

 「高校野球が青春をかけて面白いって?熱くて感動するって?ワシらプロのモンはな、生活が懸かってるんよ!妻や子供を食わせていかなならんのじゃ。青春がかかっているか、人生がかかっているか、どちらが真剣度が高い?上っ面だけでものごとを言うな!」

 その番組出演者の弁も確かに正しい、人生で一度きりしかない青春の夏を甲子園で、全力で、肩を壊してもいい、その後野球ができなくなってもいい、そうした純粋な気持ちで野球というスポーツにのめり込む姿は、気高くも美しい、確かに、その点を指摘してもいるのだろう。この感動は、一次元の目(子供から少年少女)で感動を与える。しかし、プロ野球ともなると、そうした一次元の目ではとらえきれない奥深さというものがあり、それに気づいている者は、金田の真意に得心がゆくのである。これは、高校生の大学受験勉強と大学生の準研究という学びの領域における勉強というものにも喩えることができる。

 野村克也の名言「欲から入って欲から出でよ」の真意といったものが、実は、金田の言わんとすることとの相似形をなす。

 一般的に、大学受験とは、自身の志望校、旧7帝大や早慶といったレベルの高い大学を受験するために、“くそ面白くもない科目”をもくもくとこなす、それを究めて、入試問題という難関を突破する、いわゆる合格である。このエネルギー源は、将来のために今を我慢する精神にも似ている。好きなことは、まず二の次に置いての我欲である。妄執ともいっていい勉強である。この欲といったものが、傍から観ていると必死、つまり高校球児の姿にダブって見える。この大学受験の必死の姿、それを親も、子も、努力と捉える。これは、一次元的努力というもの、外発的努力とも言い得るものだ。
 入試というイニシエーションで、受験生を精神的に成長させるという点で、よく甲子園出場校の監督が敗北したナインに対して、「お前達は、これまで努力し、ここまできた。この経験は、その後のお前達の人生に大いに生きて来る、この敗戦こそが、お前たちの財産だ!」という言葉の真意なのである。当然、優勝した高校生ナインは、努力が報われた経験が宝、いわゆる自信ともなるだろう。この点、2000年代のカリスマ予備校講師、代ゼミの英語講師西谷昇二や古文講師吉野敬介などが、受験勉強根性輪を説いてもいた。その根性で、希望の大学へ入った後、その後、目標もなく、遊びの四年間になる大学生がなんと多いことか!

 エリート球児の欲、甲子園出場・優勝という目的・目標というものが彼らを鍛錬し、成長させもする。その後である、問題なのは。メジャー大成する者、成功組、大谷やイチローは、その先の夢を有していた、その青写真を描いてもいた。

 「欲から入って欲から出でよ」、その言葉の、欲から出た後の、漢字一文字が肝要なのである。欲であっても構わないとするは、凡人、それであっても大方の若者の人生はそれで十分とも言い得る。しかし、この欲から入った大学という4年のモラトリアム期間で、その欲を何に化けさせるか、それこそが肝要なのである。それは、一般社会人を含めた、ビジネスをする者であれば、であり、学問を究めようとする者であれば、でもある。アスリートになるものであれば、である。高卒で料理人の世界に足を踏み入れた者ならば、である。
 渋沢栄一の『論語と算盤』の核心、精髄を表徴する言葉である。

 「最も経済的であろうとすれば、最も道徳的であらざるをえず、最も道徳的あろうとすれば、最も経済的であらざるをえない」
 ここにも、西田幾多郎の“絶対矛盾的自己同一”の法則の生脈の響きが聞こえてもくる。
 
 これぞ、からへの雄飛である。

 ノーベル賞級の発見や発明をする科学者、いわゆる、理系の人間は、栄誉や栄達、特許や出世などは、意識の閾の圏外にあるはずだ、崇高なる知の快楽に酔いしれる愉悦の“ゾーン状態・アドレナリン分泌”の閾で研究に没頭している。欲から“出家”したともとれる境地である。

 昭和の伝説のアスリート、相撲の双葉山や巨人の川上哲治の理想とした“道”は言わずもがなである。“道を講ずる館”という意味の講道館を開いた加納治五郎の、日本古来の柔術を柔道に変えた“精力善用”・“自他共栄”という理念である。メジャーで大成したイチローや大谷翔平や、アメリカや中南米出身の一流メジャーリーガーが一目を置くその気高きスピリットに、アスリートの鑑を観ているはずである。
 これぞ、アスリートにおける、ある意味で、と言い得る点なのである。

 情熱大陸やプロフェッショナルで取りあげられる名シェフや名料理人は、著名な料理学校出身者が皆無である。神の手を持つとされるカリスマ外科医が、旧7帝大出が稀という事実にも瞠目できよう。こうした前者には、給与(収入)や名誉といった臭い可香がたちこめるのに対して、後者には、自身の技の上達・スキルのステップアップといった匂い香が漂う。を磨くという執念において、金儲けという欲は、二の次、三の次になっている精神ステージでもある。
 
 ただし、こうした、信・知・道・技であれ、その欲からステップアップしたものを忘れてはいけない。これら4つの概念は、いや、理念といったものは、欲という卵から孵化したものなのだ。大方の大学生は、猛受験勉強から孵化したヒヨコを殺してしまっているのである。
 概念において、自身の好きという、興味対象がまずあらねばならぬという前提条件が必須なのだ。それがなければ大成はないことはいうまでもない。ここにも、“好きこそものの上手なれ”が存する。寝食を忘れ、金銭を忘れ、名誉を忘れ、それに没頭するくらいの熱意がなければ、高校時代の欲の代用は、大学生以降は、芽生えてはこない。その代用とされるものを措定すらできない、よって実現不可能ともいっていい。実際に、欲からの脱皮はできないということだ。ここにも、少年少女へ向けた餞(はなむけ)の言葉「好きなことを見つけなさい、好きなことをやりなさい」が輝きを増す。好きなことが見つかり、欲を膨らませる、これは理想だ。多くの医学部受験生は、これに該当しもしよう。しかし、好きなこと、やりたいことが見つからず、その段階で、受験という、イイ大学へと妄執に捉えられるものだ。
 本居宣長などは、両親が商人には不向きと京都へ、医学の遊学に出す。しかし、宣長は文学に世界にはまってゆく。その後、国学の大成者となる。人生とは、紆余曲折で、直線的でないことを教えてくれる見本のような人生である。

 この好きなことが見つからずに、受験勉強をして、そのまま、その受験合格という欲がそのまま4年後、できるだけいい会社に入りたいという就活段階の欲へと高等教育機関で変貌する。これが凡人の、悲しい定めでもあるが、「欲から入って欲から出でよ」、この言葉、輝き過ぎて、昼間の太陽のように、目先の楽しいことに汲々としている小人大学生には、その核心が見えないものだ。(つづく)



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