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<学校英語>とは、'洋食'である!

 私は、個人的ながら、横浜で英語の個人塾を主宰しており、授業の雑談、また、日本史や世界史の授業でも、日米安保、即ち、自衛隊の件、そして、軍事安保についてのほかに、日本には、食糧安保と教育安保という概念が必要だと、彼らに自覚させるように言及することがよくあるのです。日本の食糧自給率の低さ、教育における国家予算の低さ、国立大学の独立法人化による論文偽装問題の関係、この食糧と教育という範疇は、利益、収益、効率、こうした視点からは考えられない問題であると、滔々と教え子に諭すのです。あのノーベル賞受賞者の大隅良典氏の「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」の発言もよく引用します。本当は小泉信三氏{※福沢諭吉の秘蔵子でもあり、慶應大学の中興の祖であり、今上天皇のご結婚前までの養育係でもあった巨人:ある意味明治天皇と西郷隆盛の関係にも似ていると言えましょう}の言葉でもありますが。
 まず、日本には、3安保、即ち、軍事安保、食糧安保、教育安保といった概念が必要だと、生徒達に教えてはいますが、この場で、特に、教育安保という領域に関して、どれだけ世の一般大衆が、無自覚で、短史眼的か、それを英語教育に関して危機感を持つ、市井の一塾講師から、ご父兄の中に、私と意見を同じくする方がいらっしゃることを前提にして、語らせていただきたいと思います。
 第二次安倍政権になり、第一の目標である日本国憲法の改正案件なるものが、世を賑わわせているのは、周知の事実であります。国民も、日本が戦争に巻き込まれるとか、憲法9条の理念の保持とか、集団的自衛権やPKOの線引きなどの問題、日本人が、何等かの形で、戦争、即ち国際紛争に巻き込まれる云々などから、また、世論調査などから、身近な案件として、意識の片隅に多くの国民は置いていることが推察されます。この、政治的問題とも言える憲法改正の話題には、国民は、大方、慎重・悲観的・敏感に反応し、それを一部の野党は手前勝手に援用し、政府攻撃をする。しかし、ことが教育問題となると、一般大衆は、短史眼的・楽観的・鈍感となり、理想主義また、グローバルスタンダードという御旗の下、思考停止状態となっていると言わざるをえません。農業の自由化で、国内農業が消滅しても、‘安くて美味しいものを手ごろに食べられればいいや’的根性と同じものを、教育に関しても言えるのではないか思っている次第です。
 譬えは飛躍しますが、農業の自由化でも、松阪牛、神戸牛、米沢牛といった和牛ブランド、比内地鶏、名古屋コーチンなど、実は、こうしたブランドを育てている農家すらアメリカ、オーストラリア産の牛肉、海外産の安価なブロイラー、こうした農産物で、国内産のブランド品種を駆逐しようとする暴挙にでているとも言えるのが、今般の文科省の英語教育改革なのです。この危機に警鐘を鳴らしている鳥飼玖美子氏や斉藤兆史氏の声、まっとうな意見は、スペインの思想家オルテガ{※大衆というマスの集団心理のいかがわしさに疑念を抱き続けた思想家}の文脈でいう大衆の心には届いてはいないというのが実情なのです。
 では、このオルテガの言う大衆とは、どういう存在か、私流に解釈すると①そもそも、まともで、まっとうな制度・文化をも破壊して、未確定・非保障的理想を追い求める人々{ゆとり教育の元凶がましくこれ!}②問題や課題を自己ではなく他者や社会のせいにする人々③自己の責任・義務よりも権利・要求ばかりを主張する人々、こうした輩が、安倍政権の教育改革を支持しているコアな存在でもあるのです。
 グローバル化する趨勢に、英語教育も飲み込まれようとしている現実に、警鐘を鳴らしてきた鈴木孝夫氏や渡部昇一氏などの言説は、難しいことを、大衆には少し易しく説明した程度であった(※私の推測です)。鳥飼氏や斉藤氏の論調も、難しいことをよりわかり易く説明してくれてはいるが、‘物事の本質を見ようとしない’大衆の耳には届いてはいないようです。彼らは、大学というフィールドで活躍されている学者でもあるから、ことが一般的に専門性に傾く嫌いがあるからでもあろう。ここで、である。私は、中学から高校まで、6年間どうやって“This is a pen.”から東大・京大・早慶上智の大学の過去問を8割近くをゲットするレベルまで生徒達が伸びてゆくのか、その成長過程をすべて詳らかに、直に観ている臨床英語教師の視点で、難しいことを易しく、更に、おもしろ可笑しく、様々な比喩を用いて、現在の英語教育改革がどれほど、誤った方向へ日本の少年少女たちを導こうとしているのかに気づかせるという意味でも、筆を走らさざるをえなかった次第です。
 書店の参考書売り場では、“わかりやすい~”“世界で一番わかりやすい~”“誰でもわかる~”、こうした枕詞がつく語学参考書がどれほど跋扈していることか。生徒も、従来に比べれば、文章認識力、読解力が落ちてきたのか、ああでもない、こうでもない、と噛んで砕いてあげるようにしてあげなければ、買わない、わからない読者となっているようです。世の親御さんも同族です。せっかく、鳥飼氏や斉藤氏のように、まっとうな英語教育論を新書などで訴えても、誰も、シールズや護憲派市民団体のように、国会周辺で、英語教育改革反対のデモをしない、また、公立はもちろん、私立の学校でさえ、反旗の狼煙をあげようとはせず、“純一恭順”{=面従腹従}か、せいぜい“武備恭順”{=面従腹背}程度のありさまです。これは、幕末の長州藩の幕府への態度を表した用語です。この意味でも、英語教育改革の高杉晋作的存在が、現在の日本には必要なのです。
 そこで、こうしたオルテガの文脈の大衆に対して、ビートたけし的言説で、ああでもないこうでもないとわかり易い比喩、譬えを多用して、折伏させてやろうという気概をもって本文をしたためている次第です。
 これは、あくまでも仮定での話ですが、もしあのノーベル文学賞に最も近い作家村上春樹氏が、『私の英語教育論』なるものを出したとしたら、勿論、ベストセラーは当然のこと、英語教育界に相当な影響、インパクトを与えること必定であろう。そして、その内容の大方は、私の本論の主旨を逸脱するものではないことは、うぬぼれながら、自信をもって申し上げることができます。その論拠は、本題の目的ではないので深入りしません。
 今般の、文科省の‘従来の英語教育批判’{これまでの学校英語の全面否定}は、次の譬えに集約できるように思われます。この譬えは、司馬遼太郎や小林秀雄の‘立ち位置・評価’というものをお分かりの方にのみわかることですので、少々理解不明なご父兄はご容赦ねがいます。これも、我流の比喩とお許しください
 司馬遼太郎の小説が、これほど日本国民に愛読され、日本人の精神の糧ともなっていながら、海外で翻訳されず、海外の評価は低い。これには実は、様々な要因が絡んでいることは承知してはいますが。小林秀雄の評論が、どれほど、日本人の知識人などに影響を与え、批評というジャンルを確立し、批評の神様とまで言われながら、一向に海外で翻訳される作品は皆無、また、評価も未定、こうした二人の作家の立ち位置と日本英語教育の状況は、比喩としては飛躍があるが、共通の真実の同類項としては全く飛躍がないということにお気づきになるご父兄様へ、僭越ながら、申し述べておきたいと思います。
 ここで何がいいたいのか?司馬遼太郎の小説にしろ、小林秀雄の評論にしろ、外国・海外の評価というものなど抜きにして{※グローバルスタンダードや韓国や中国の英語教育という物差しからの判断}、実は、良い意味での<学校英語>は、日本人の精神や知性・思考をどれほど深めてきたのか、その功績は、ちょうど、海外から流入してきた、‘洋食’というジャンルにも等しいと言えるのです。独自に進化してきた有効教育手法である。トンカツ、オムライス、スパゲッティナポリタン、カレーライス、こうした日本人に最も愛されている‘洋食’というものを、イタリア人やインド人また、西洋人などから亜流である、邪道であると、あれこれ西洋かぶれしたシェフ{帰国子女系英語教師・資格ゲット第一主義英語教師}から批判されている立ち位置が、まさしく、文法・訳読系の批判の矢面に立っている<学校英語>というものである。明治以来、文法・訳読の<学校英語>は、ある意味、この‘洋食’と同じように、‘市民権’を得ているのです。日本語に、本来、音読みと訓読みが混在するように、発音と意味を二刀流で学ぶというのが、雑種文化の伝統でもある、日本らしさの学習というもののオーソドクシー(正統性)であり、また、その流儀を放棄したならば、言語という文化の表層しか、根を張らないこととなる現実を政府・文科省の連中はわかっていないのだろうか?
道具としての、文明のツールとしての英語、それは、目的・動機がはっきりした、大学生・社会人になって十分に身につくのである。中等教育は、道具としての英語以前の自身の思考基盤の日本語を鍛え・自覚させるプロセス、即ち、“文化としての英語教育”にこだわるべきであると考える

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