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企業というもの・学校というもの

 7月7日の日本経済新聞の一面が、非常に味深い見出しが並んだ。それは、以下のようなものです。
 
 まず教育的観点からの見出しである。
 
 揺らぐ「学びの保障」
 デジタル対応 20年遅れ 文科相が絶句
 日本は授業でのデジタル機器利用がOECD加盟国で最低水準
 
 次は、ビジネス的観点からの見出しである。
 
 「オフィス不要論」現実味~富士通の在宅勤務の方針を報じた記事~
 
 この富士通の記事は、同じ7月7日の朝日新聞にも一面次のような見出しで掲載されていた。
 
 富士通、在宅勤務を原則に
 富士通が、在宅勤務を原則とし、働く場所や時間を選べる新制度を発表した。国内のオフィスを半減させ、単身赴任も解消すると。長引くコロナ禍で、他企業にも広がりそうだ。
 
 富士通といえば、超一流企業である。先日も理化学研究所と協同で世界一位となったスーパーコンピューター“富岳”を開発した世界最先端企業でもある。こうした、技術系エリート集団の大企業が、脱オフィス化を推進するなら、その社員も一同大きく右旋回して、“大船”の方針に従う能力・資質も大いに持ち合わせてもいるだろう。しかし、大方他の企業、それは大であっても、小であっても、このように、デジタル化、リモートワーク化には、そうやすやすと対応・適応できないのが実態ではなかろうか?
 
 あの難関の中学入試をかいくぐってきた優秀な少年少女がいる開成、灘、桜蔭といった超進学校で、オンライン授業を行っても、そもそも、勉学上、自らを律する自我が確立されている生徒が多いエリート校であれば、オンライン授業への適応もできやすいのと、この富士通の事例は同じことがいえる。
 
 テレビのワイドショーでよく映し出される学校や生徒が、オンライン授業やら自宅学習やら、見事に適応できている模範的事例を観て、へこんだり、落ち込んだり、我が子や自校に失望したりする一般的なご家庭のことへの想像的配慮がマスコミにはなさすぎるのである。余談であるが、今回の北九州を襲った豪雨災害(熊本・大分・福岡地方)で、中学生や高校生の受験生を扱った、プチ特集が全くないのは不思議である。2月末、開成に合格したご家庭を朝のワイドショーで特集する番組は毎年目にするが、昨年の台風19号の被害者家庭の受験生の実状をあつかった、報じた番組が一切なかった時も、教育を生業とする私には、不満を抱いたものである。
 
 以上は、富士通と他の一般企業の違い、そして、開成や桜蔭と他の標準的学校の生徒の資質の違い、これを指摘したわけだが、実は、私がこの日経新聞の一面の<二つの見出し>で感づいた、違和感を持ったのは、企業の論理と学校の論理の混同という観点である。そして、欧米の学校と日本の学校との学習風土・教育環境{※日本では、OECD加盟国の先進国で教育予算が最下位であるが、教育産業(塾・予備校)が隆盛を極めている二重構造}の根本的な相違の無視である。この2点を考慮せずして、日本の教育システムは語ることはできない。
 
 日本の学校は、就学旅行、文化祭、体育祭、部活動など、欧米の学校とは、まったく学ぶ環境、学校のおもむきからして異なるのである。だから、本コラムの別の箇所で、学校は、“託児所”であり、“拘置所”であるとも述べた次第である。勉強は、学校生活の一部であり、その一部の勉学に不満があれば、塾・予備校などに通う教育風土なるものが厳然としてある。これが教育格差の淵源であることは今や自明の理である。また、日本の学校は、少子化の到来の現実の真っただ中にありながらも、一向に少人数制の授業が実現できていない。40人学級のままである。それで、“オンライン授業だって?笑わせるな!”と言いたい。40人学級のままで、タブレット端末を全ての生徒に支給して、それがどれほどの効果があるのか。その費用対効果を、文科省と財務省は綿密な計算ができているのだろうか?イージス・アショアの導入を安倍総理のトランプ大統領への忖度的思いつきで導入した経緯と同じものを感じる。
 
 また、「社会・会社がリモートワークだから、教育界もデジタル化、オンライン化だ!」といったように即断する、浅慮・軽薄さといったらない。単純思考以外のなにものでもない。私はいつも主張していることだが、文明の尺度では、文化は測れない。ビジネスは文明の範疇に入ることは必然ではあるが、教育は文化に軸足を置かねばならないという原則は譲れないのである。ましてや、義務教育の小学校から中学校にかけては、文化の範疇が三分の二以上だとも思っている。高校生ともなれば生徒まちまちで、五分五分といったところだろうか?大学ともなれば、三分の一が文化的領域ともなるため、オンライン授業もしぶしぶ可とせざるを得ない。しかし、今や、大学だけがどうしてまだオンライン授業だけなのか?といった不満が学生の間で燻ぶり始めている。
 
 この日経新聞の論調は、欧米基準で、企業の論理で、コロナ禍にみまわれた日本の学校教育というものを裁断しているように思えて仕方がないのである。
 
リモート授業、テレスタディ、こういった用語・言葉は、否定的コノテーションを有する。だから、オンライン授業という言葉でメディアは統一して用いているのだろう。オンライン会議、これはさほどマイナスのニュアンスは伝わってはこない。
 
 今や、全世界がコロナ禍に置かれている状況で、社会の論理、会社の流儀、これらを学校にも当てはめようとする風潮が世界を覆っている。しかし、少数意見であるかもしれないが、これは、間違っていると声を大にして言いたい。欧米の新型コロナ感染者の数、死亡者の数、これと比べると、アジア、特に、韓国、台湾、日本など、数が劇的に少ない。また、老人や中高年の感染者の重篤度と、未成年・子どもの感染者のそれとはレベルが断然に違う現実を考慮すらせず、社会の論理と企業の流儀を、学校という社会に適用しようとする、その愚は、安倍晋三の2月末の一斉休校要請に如実に顕れていたではないか!
 
 何故こうまで、社会・会社と教育・学校とを線引きするのか?それは、何度も言うが、文明と文化の違いであるからだ。前者は、肉体も精神も完成した人間が、スキルや経験を売り、金を貰い、世の中を便利に、発展させてゆく使命があるのに対して、後者は、そうした両面が未完成の人間が、金を払い、知識から知恵、時にちょっとした知性すら身に着ける存在であるからだ。学校とは、文化というものの中で、人間を上手に、熟成させてゆく孵卵器でもある。
 
 数学は文明、国語は文化の表徴である。天才数学者岡潔の名言「数学は情緒である」を持ち出すまでもなく、「数学は、また、算数は、国語教育に存する」との謂いでもある。文明の下部構造は文化であることを愚者は忘れるものである。和魂漢才とは、菅原道真の旨としたところであり、和魂洋才とは、佐久間象山の警鐘でもあった。この両者の根底に流れているものは、文明と文化の線引きである。これらを混同すると国家・社会は衰退・破滅へと突き進んでゆくものだという賢者の遺訓でもある。
 
 だから、何度でも言おう!オフィスにGood-byeはできても、教室にはGood-byeはできぬものであると。 
 

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