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文化を置き去りにした、ぶっちぎりの文明社会

 これは私の持論でもあるのだが、文化というものが、文明を生み、文明というものが、ある意味、文化を変え、その文化が、また文明を進歩させ、その文明が、文化を進化させてきたともいえる。特に産業革命以来、市民社会の出現や女性の社会進出であり、蓄音機、レコード、CD,そしてデジタル配信といった音楽産業と大衆の聴衆との関係でもある。
 
 ここでであるが、この文明と文化の人類における円環的相互影響関係というものが、どうも、科学技術の突出ではないが、左足に草履、また下駄をはき、一方では、右足に革靴もしくは、スニーカーをはいているような、居心地の悪さといおうか、履き心地の悪さを感じずにはいらない今日この頃である。
 
 今や、文明を象徴する利器、スマホというものが、文化の“精力”を奪っているとしか思えないのである。スマホが、時代の標語でもある“社会の多様化”を促進しているように見えながらも、実は、無意識のうちに“社会の画一化”を拡大しているとも感じられるのである。
 
 フランスの良き格言としてcultiver la difference” (差異を耕す⇒多様性を増す)というものがある。またフランスのノーベル文学賞受賞した哲学者ベルグソンの言葉、「哲学とはユニテに到達するのではない、ユニテから身を起こすのだ」といった名言があるが、それとは真逆の方向へ、21世紀の世界は、文明というアクセルのみで猪突猛進している感が否めない。英語帝国主義、そしてGAFA帝国の樹立、そして彼らの収入源(税金)はスマホから徴収されて、大衆は“イワシの群れ”のように価値観から娯楽にいたるまで扇動されている状況(りさま)を作り出してもいる。これは、原田曜平氏あたりに、令和のJK(女子高校生)へアンケートをしてもらいたい。昭和から平成の彼女たちに比べ、今時の彼女たちは、男子(恋人や将来の伴侶)には、頭の良さよりお金の多さ、性格よりルックスを優先する度合いが高まってきているはずである。こうした気質の勃興は、アナログの気質よりデジタルの気質が優っている証拠でもあり、過多情報化社会の負の側面でもあり、彼女たちのメンタルにおいて<文化が文明に放逐されている現象>の証左の何物でもない。目に見えないものより、目に見えるものに価値を置く気質の誕生である。「本当に大切なものは、目に見えないものなのです」<『星の王子さま』>などいう金言は、猫に小判、馬の耳に念仏なのである。その一方では、消費に関して言えば、モノよりコト優先、おしゃれな衣服やブランド品よりもTDLやUSJ、さらには“王様のブランチ”(TBSの番組)などで取り上げられるレストランや高価なスイーツには目がない。まことに始末が悪い部族と嘆いても、これが大衆のマジョリティーなのである。こうした行動を正しいとか間違っているというつもりは毛頭ない、しかし、真の文化という観点から申しあげれば、“透き通った悪”とJ・ボードリヤール流に断言できるのである。
 
 実は、このデジタル化社会のぶっちぎり現象というものが、もやは、新しい文化(次世代の文明を生み出す文化)を生みだしているのではなく、みたくれ文化、文化の仮面を被った文明のみを、世界に跋扈させているのである。それは、美しい森林を伐採して、畑や農場にしているようなものである。人間の欲を満たす食糧につながるものを目的に、アマゾンや東南アジアの密林を伐採している人類の行為が、実は、地球温暖化というしっぺ返しとなることに、近年、ホモサピエンスはどうも気づいたらしい。それが今や有名となった人新世という用語に集約されてもいる。
 
 化石燃料、即ち、石炭や石油を用いた火力発電や自動車という文明の利器が、ここ10年で地球の異常気象、海面上昇、夏の猛暑など従来では考えもつかない未来の空恐ろしい地球にしていかねないことには気づいても、このスマホに代表される、デジタル化社会というものが、本当の意味での、多様性に根を張る文化というものを根絶しにしてしまいかねないということに警鐘を鳴らす識者は皆無なのである。

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