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時代は変われど<読み書き算盤>の軸足を変えてはいけない

 NHKの教育番組『ウワサの保護者会』(2020年11月14日)というものを観た。議題は、「算数・数学が変わる!」というものである。この番組、文科省の広報官ではないかと勘繰った見方をしたくなる体制派の番組である。そのホスト役であるである尾木ママこと、教育評論家の尾木直樹氏などは、俗耳に心地よい言説を、危機感を煽りながら吐かれる。民放などワイドショーで引っ張りだこの“タレント文化人”であることも大衆を納得させるオーラを放って、ゲストの出演者も同調せざるをえない状況に追い込まれる。「教育も時代と共に変わらなくちゃならないのよ!」とオネエ調に主張する、その“キャラ”も武器となり、出演者の誰も反論ができない。
 
 「教育も時代と共に変わらなくちゃならないのよ!」と主張するのは、スポーツにおける体罰の否定や、社会のジェンダー論を学校に適用するとか、くだらない、旧態依然の校則の廃止など、社会の慣例事項を教育にまで落とし込み、変えるという主張の次元までならまだ納得もできる。しかし、近年、学校の科目、教科の内容にまで改変を是とする改革論者が非常に跋扈し始めている傾向が、私の懸念材料なのである。その一つが、「算数・数学が変わる!」というテーマである。
 
 そのテーマとは、従来のA「計算力に代表される知識・技能」だけではなくB「思考力・判断力・表現力」さらにC「学びに向かう力・日常生活に応用する態度」も算数・数学の授業で求められるようになるという。はっきり言わせてもらうが、小学校の段階で、このBやCなどは不要である。小学校5年の東京の八雲小学校の授業を画面では映しだしてもいたが、正直、積極的な、前向きに考えるという耳ざわりのよい言葉とともに、その授業は肯定的にご父兄の目には映ったことであろう。しかし、これは、いわば、学校での英語の授業における文法・読解軽視、いわば、コミュニケーションや発音・リスニングをメインに授業で行い、役に立つ英語というスローガンのもと、英文法や読解などは個人(塾)で当然行ってくださいねという暗黙の前提があっての現今の英語の公立中学の授業の数学バージョンに思えて仕方がない。このような斬新な、先進的な、理念優先の、大衆受けする算数・数学の授業を公立小中で行ったにしろ、算数・数学の土台の従来の小数や分数の加減乗除の計算能力は、ほとんどが学校外で家庭各自で行わなければならない事態を生むことになる。また、あるご家庭の親子が取り上げられてもいたが、そのやっていることは、本来は、大学生がゼミとかで行ってもおかしくない、その初級レベルである。こんな“ごっこ遊び的算数の授業”を小学生レベルで行うなどは、どうかと思う。このご家庭などは、当然ながら、塾で四則計算などは十分身についてもいるお子さんであることは間違いない。それがあってこその“賢さ”と画面にはその子の姿が輝いても見える。文法力があっての、きちんとした英会話力を持つ生徒か否かの判別と同じことが算数・数学の“思考力・判断力・表現力”の授業でも出てくるのである。
 
 今や、小中高の学校では、時代迎合というコンセプトのもと、従来の本当の意味での“時代や国を越えた不変的また普遍的《古典的》学力”がなおざりにされている。いや、それは個人、家庭レベルで行わざる得ない状況にある。本来大学でやるべきコンテンツ(思考力・判断力・表現力)を今では、高校、中学、そして小学校レベルにまで“トリクルダウン”させる愚挙に出ているというのが私の感想である。これは、文明(デジタル)の手法を文化(アナログ)の流儀に当てはめようとする、“教育の去勢化”という、亡国のかじ取りであることに誰も警鐘を鳴らそうとしない。これは、極論かもしれないが、男女の社会的性差が、ジェンダー論の立場からどんどん排除されている。男らしさ・女らしさが否定される風潮に比例するかのように、大学も、高校も、中学も、小学校も、全てが全て、「思考力・判断力・表現力」という文科省が流行らせた甘言の下、デジタルを発端とする実用主義の影響下、それぞれの発育段階が未成年にあることを忘れ、小学生には表層的“とっつあん坊や”を育て上げることを是とし、大学生には、アニメとスマホ生活で非読書生活で成長した“Grown-up Child”を容認する教育的空気が覆ている。これはまさしく日本の衰退を予見しているように思えて仕方がない。
 
 昭和の時代、福田恆存が孤軍奮闘した国語問題論争、言語学者金田一春彦氏の「日本語は乱れていない」の発言にかみついた福田恆存、教育を文化と考える範疇で、教育は保守であらねばならない。国を支えるのは、文明ではなく文化であるからだ。文明はある意味、知識であり、文化は、知恵でもある。知識は井戸であり、知恵は井戸の掘り方である。
 
 財界からの圧力かは知らないが、大学に企業で役に立つ人材の要望として、自民党政権に圧力がかかってもいる。その高等教育の責任転嫁として、高大接続という狡猾な手法を文科省と大学当局は編み出した。本来は大学がやるべき、使える英語とやらを、中等教育に責任転嫁したことである。少々話は脱線するが、今や、一部の高校生、TOEIC志向の大学生、そして英語やり直し族社会人に絶大な人気を博しているカリスマ英語講師関正生や大西泰斗などの手法を受験英語・学校英語を経てきた大学生に、リフレッシュ的な授業で当てはめればいい、それすらできない大学教育の現状が、そもそも病んでいる証拠である。一部の2~3流大学の理工学部の学生に予備校講師をお招きして、物理や化学を補講的授業を行わざるをえない現況も耳にする。大学の講師・教授が、科学の基礎の基礎を教えるノウハウを全く持ち合わせていない、そして、学生も最低限度の理科の知識すら身に付けずキャンパスに入ってくる。
 
 こうしたアカデミズムの貧困なる現状を忘れ、それを「時代は変わった、算数・数学も変わる」だの、「時代が変われば科目も変わるのよ~!」と尾木ママが絶叫する、その軽薄なる大衆迎合主義、これを、デジタル社会の“アナフィラキシー”とは誰も指摘しようとしない。
 

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