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国語と現代文とは似て非なる科目である!

 養老孟司氏の長野県の講演会「これからの時代に必要な学びとは?~長野県 学びの県づくりフォーラムVol.2~」をYouTubeのアーカイブで観た。栄光学園から東大医学部に進んだ彼が、東大理Ⅲに進んでくる後輩受験エリートに言及した興味深い発言の箇所があった。私が日ごろ抱いていた、国語という科目の謎めいた領域に関して語っていた一節に触れてみたい。
 
 現代の“知の仙人的教養人”{※名前に子と子の二語が含まれてもいる(笑)}が、脳解剖学というサイエンスを生業として、昆虫採集という趣味を持ち、自然に接する大切さを説き、東大退官後、子供と野山で虫取りに興じる経験から、現代の受験生の姿を、どうお考えになられているのか、質問してみたいことを檀上で、思いもよらず吐かれていた。
 
 新井紀子氏の書籍『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済)に触れて、話が読解力という段になったときである。彼は毎年東大の中の東大でもある理Ⅲに進む、いわば将来の医師の卵と接していての実感だそうだ。「読解力は、中学生で伸びしろが決まってしまっている」という指摘だった。私は、小学生説なのだが、県立ナンバー校(翠嵐・湘南・浦和・千葉)などに進む秀才も確かに,公立中学の13~5才の年齢で読解力がついているとのことだろう。そして養老氏は、「高校では、もう読解力はつかない」とまで言い切っている。これらの指摘は、新井氏の文章を援用してのコメントだろう。この点、日ごろ、出口汪氏の参考書や板野博行氏のものなどで大学受験の現代文が伸びたとぬかす高校生など、「自動車学校の学科の問題で演習し、本場で足がすくわれなくなった」と語る主婦の感想とダブって見えてきてしまう。また、それは読解力がついたとは到底いえない代物である。
 
  話は、脱線するが、タレント木下優樹菜が、自動車学校に入学し、結局はその自動車学校の学科の卒検に26回も落ち、結局は学校を辞め、今でも自動車免許を持っていないというエピソードなんぞは、読解力のあるなしの喜劇の典型でもあろう。
 
 養老氏は、具体的にこうも語っていた。東大医学部に進んでくる学生、灘校や東京の御三家の麻布の生徒を観ていると、「どうもそうした進学校は読解力の伸びた子供たちを上手に集めているな!」という実感をもったという。ここも新井氏の説を現場で証明してもいる。ここの指摘が、まさしく、藤原正彦氏の有名な名言「小学校で大切なのは、一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数」と見事に符合する。しかし、新井氏は自説として「小学校で大切なのは、一に読解、二に読解、三、四が遊びで、五に算数」と、日ごろ養老氏が、小学校は遊びの場にしろと主張している考えを取り入れた折衷案である。
 
 養老氏は、読解力のない生徒に関して、それは、彼らを称して「‘読み’たくない!」と喝破しているのである。これは、『バカの壁』の中で言及されてもいる、いわゆる‘バカの壁’の気質・資質と符合する。恐らく高校生ともなれば、思春期を過ぎ、ある程度自我というものが形成される過程である。それは、思春期の典型的気質が、好き・嫌いがはっきり現わしてくる段階のことである。現代っ子は、昔に比べ虫が嫌いな子が増えてきているともいう。確かに、私も中高生にじかに接しているとその感が強い。虫嫌い、都会生活が好き、ゲーム大好き、自然環境消極派がマジョリティーである。こうした日常に文明の度合いが増すのに比例して、自然の一部とももいえる昆虫というものを毛嫌いするようになる。高校生ともなると、異質なモノ、中学まで接してこなかったモノ、活字という存在を蛇蠍の如く嫌悪する学習上の心理が定着してしまうのである。最悪なことに、平成の後半からSNSなどで高校生の読書の時間は消滅する一方である。数学という苦手科目は、昭和と違い、早くて高1、遅くても高2でオサラバできる教育上のカリキュラムとなっている。
 こうした深層心理で、‘読み’たくない気質の高校に、読解力などを求めるは、海を見たことがない未開の部族に、海で泳げと言うに等しい。イスラム教徒に豚肉を食えと言うが如しである。そこで、高校生ともなると、現代文で、やたら‘論理、論理!’とカリスマ講師が、まるで、新聞が政治家に、‘倫理、倫理!’と叫ぶがごとく扇動するのである。実は、高校生が、受験参考書程度で身に付いたとする論理など、お里が知れている。だから、MARCHレベルの難易度が高い問題から、旧7帝大の二次の国語の記述問題など到底手も足もでないのである。‘競馬の出目本’程度の参考書では、カチカチ山の泥船のように本番で沈んでゆく。新井氏の本でも指摘されているように、「人工知能(AI)はすでにMARCH合格レベルに達している」という実証例が、世に流布している高校生向け現代文参考書の底の浅さを露呈してもいよう。
 
 実は、栄光・聖光の秀才高校生に、灘や開成の高校入試の数学が難しいと感じられたり、がり勉東大生が家庭教師で、灘や開成の算数の難問を質問されると、解答のプロセスに窮したり、更には、著名作家が、自身の文章を大学入試で出されたものにお手上げ状態になるといったエピソードなどは、数学にしろ、算数にしろ、国語にしろ、表層的“論理”などという代物では到底太刀打ちできぬ“学力の無意識的”領域で、受験生を篩にかけているという実態をどうも、世のカリスマ講師は、また、巷の参考書だけやればいいと思っている高校生は、お忘れになっているようである。
 
 ここでカリスマ予備校講師林修氏の授業に触れよう。東大志望者のみの教室で、現代文だけが少々凹んだ高校生を集めている光景を想像してみてほしい。“現代文ネイティブ”(小学生でメチャクチャ読書をした者)でもある林氏が、中学生までに形成された読解力という伸びしろのある、しかし、現代文では思うように点数がとれないと‘迷走’している超進学校の生徒に救いの手を差し伸べる。大方は、現代文は足手まといにならない教科となる。そして、成功した生徒の声がさらに林氏のカリスマ性を増幅させる、この構図が東進ハイスクールのビジネス戦略でもある。当然ながら、林氏があれほどの売れっ子現代文講師でありながら、なぜ参考書の類を一切出していないのか、その理由も氷解する。出せば、彼の現代文参考書は、数学勝者のバイブルでもある『大学への数学』{※数学が好き、数学が得意の高校生のバイブル}の‘現代文バージョン’となりかねない、むしろ、出せば、自身のカリスマ性というベールが剥がれ落ち、カリスマという霧を雲散霧消させかねないからでもある。参考書は、印税以上に彼の商品の価値を貶めることに相成るからである。
 
 この養老孟司氏が、この講演でさり気なく言及したことをまとめる。私なりの<国語=読解力>と<現代文=論理>とは別物であり、前者の肥沃なる読書経験{※読書量≠読解力と新井氏は主張してもいる}なくして、高校生になって後者の野菜を栽培しても、青果市場で高く値の付く商品(早稲田の現代文から東大の二次の記述問題を解ける能力)にはならないということである。高校生で身につくような論理だけで解ける現代文の解法は、農薬・化学肥料を用いて栽培した野菜である。一方、真の読解力に裏打ちされた論理で現代文を解く手法は、有機栽培の野菜とさえ言えるのではないだろうか。
 
※以前、古谷経衡氏が興味深いことを語っていた。読解力とは、読書だけから身に着くものではない。それは、映画をたくさん観たり、マンガを読んだりして身につく少年少女もいる。武器となる読解力という高い嶺に登るには、様々なルートがあるということを、恐らく自身をファーマットとして述べられていたのだと思う。

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